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書くことで見えるものは変えられるか ーベタに見る

前回の記事の続きではあるけど、この記事は本の紹介として独立して読めます。

習慣の散歩を充実させる、ということに向けて、書く習慣をくっつけてみる、またひいては(散歩が日々の生活の中である程度の時間と場所に制限されるという前提の上で)見るという行為を変容させるようなことはできないかということを書いてみた。
その上で、見えるものを変えていくのに関係すると思われるある彫刻家の本を紹介し、冒頭を引用したところで一旦は書き終えたことにしたのが以下の前回分。

さあ今回は、この本の(自分の不勉強、力の足りなさも相まって)厄介な部分に少しでも踏み込んでいって、次回以降でこの本で扱われる主要な概念のひとつと、その概念が関わる、モノや眺めを観察する上での実践的な手法について検討するための道筋をつくっていきたいと思う。
その実践的な手法を少しでも自分の見る行為に反映させていくことが「書くことで見えるものは変えられるか」で試していきたいことである。
はっきり言って全然心許ないが、それでもやってみないことには何もはじまらないだろう。

この本を読むことの私の困難について書く前に、まずは本の概要から。

彫刻家である筆者は制作活動のある期間1970年前後、自身の彫刻のあるべき姿を模索する時期だったようで、状況を打開するためのキッカケを掴むためにパリ、エジプト、ギリシャに滞在している。その期間に彫刻家はフランスやスペインに点在する旧石器時代の遺跡をまわって、洞窟の壁に残された絵や浮彫、遺跡で発掘された石や骨角の制作物、所謂原始美術をみることに集中していた。そのことを4半世紀ほど経った後に複数の時期の文章をまとめ直したのが本書であるようだ。

彫刻家はこう書いている、

旧石器時代の絵や彫刻を出来るだけ多く見ることを終始心がけ、それによる結論や効果は何もなく過ごす時間を経て、この主題以外のことに思いがけない関連を見出し、或はそれに気付くのはずっと後のことで、極端に言えば約二十五年後のことなのである。

本書ではまず単純に見ることについての記述がかなりの大部分を占めている。記述するからには見て考えたことと言えるかもしれないが、それはとてもベタな次元での見ること/見たことの描写であって、上での引用で書かれるように結論や効果は何もなくが基本のスタンスになっている。原始美術というある種の特殊なものを見ながら、そこから結論や効果のことを何もなく、ベタに見る(その後に記述する)。これがこの本を特徴づける大きなポイントになっている。
そしてそこで起こることになるのは、ベタに見るということがどれほどまでにベタに見るでは済まなくなるのか、ということが逆に浮き彫りになってくるという事態だといえる。
この本を読むことの困難はその事態に由来すると思われる。

次へ続く。


少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。