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#2 『一千一秒物語』 稲垣足穂

星はどこにいるのだろう。坂道を転がり私のポケットに忍び込む。月とビールを飲み、ホーキ星は喧嘩の相手をしてくれる。良き隣人のようである。

稲垣足穂には空への憧れがあった。16歳で飛行家を目指すが落第して自殺を考えるほどである。その後、複葉機の製造工場に勤務するなど何処かで空との繋がりを求めていた。『一千一秒物語』は複葉機製造工場勤務ののちに上京し執筆している。宮崎駿のような趣味だなと思った。宮崎駿と稲垣足穂が友達だったら親友か、犬猿の仲かのどちらかであっただろう。きっと後者に違いない。

初めて読んだとき、正直不明な点が多かった。星の会合に出席し、月にピストルを向ける。この物語は何なのか。果てしない「?」が巡った60余ページであった。しかし、ぼんやりとだがもう一周読んでみたくなる魅力があった。まるでレトロ喫茶のよう。いつもはチェーンの洒落たカフェでラテとか飲むが、たまには薄暗い湿気った椅子でブレンドなんかもいいと思う。コーヒー臭くてたばこ臭い。いつもいる学生やおじいさん、よくわからない話を永遠にしている。ふと、明日も来たいなと思う。そんな現実生活から絶縁された異世界を作り出している。ファンタジーにも似たロマンが充満する作品の魅力にまんまと惹かれてしまうのだ。

参加者の一人がこんなことを言っていた。

「このお話みたいな体験をしたことあるんですよ。」

ポケットの中に星を持って月を追いかけたことがあるとでも言うのだろうか。

その人は続けて、「夜空を見た時に月は穴だと思った。ドーム状にできた地球で唯一の脱出口みたいだと思った。」

何となく参加者みんなが「あ~」と言っていた。「月」に対して「月」以外の用途や性格を当てはめようとすること。「月」に対して脱出口と捉えることにおかしさは無く、寧ろ人間の想像力の範疇であるといえる。考えるに値する考察である。「変な話だな」とか「私はわからなかった」と言う感想が出るということは、この物語がそれぞれ読者のクリエイティビティに対して働きかけている証拠ではないだろうか。自分の想像力に直接与えられるものについて読者同士で語ろう。友達はどこにでもいる。空にも。紙面にも。

編境文学読書会では参加者は、各々がお気に入りの星々をポケットに詰め込んで参加しております。お話していくうちに自分の過去を振り返る機会もありますが、自分の背景ではさまざまな良き隣人たちがこちらに手を振っていることに気づきます。その良き隣人は人間をかたどっていなくてもいいのだと思います。自分だけの友達が真に必要なのかもしれません。

筆者:I.S

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