【秋ピリカ】敢えて始めず
高野はその土地ではタカノと呼ばれてもいて、コウヤの音には神谷の字が当てられてもいた。
鉄道が通る以前は、女人堂にごく近いふもと側に位置する、山頂を目指す人々にとって最後の宿場町であった。
「っせい!」
搗き上がった餅を石臼から、取り粉を振るった箕へと放るなり、店の女たちが群がり来て、まだ熱いうちにひと口大分ずつをちぎり取っては丸めていく。結界よりもふもとの側なので、ここでは女たちも普通に暮らすし働いている。
この地に餅をもたらしたのは、自分たちの先祖だと言い伝えられている、福屋の跡取り息子、源兵衛は、自分の祖母を筆頭にした女たちの、手指の皮の分厚さ加減を、毎度毎度感嘆しながら眺めている。大元の餅をこしらえる担当でありながら、自分は丸められたばかりの一つを手に取っただけで、焼ける心地がして騒ぎ出し女どもから笑われているのに。
「紙が足らんでよ。源兵衛。餅には敷き紙が付き物じゃっどに」
「そうな。ほいじゃ俺はふもとまで、調達してくっかな」
神谷はもともと紙谷であった、という俗説がある。後の世には知られず、信じられもしないのだが。
墨の発色が良く破れにくい、上質の紙は、全て山頂で経本のために使われてしまうからだ。実は人知れぬ産地であっても神谷では、ふもとのもっと知れ渡った紙漉き職人たちから買い求める以外にない。
そして源兵衛は紙漉きの中でも美しいと評判の女性に懸想していた。仕方無しに訪ねるふうな物言いを店ではしたが、顔見知りの参詣客は多いのだから、彼らに運んで来てもらえば良いのであるから。
「源兵衛さん。これね」
日々の流水で洗われた清浄な印象を持つその手肌が、隣に近寄り来るだけでも源兵衛はドギマギする。
「同じ紙漉きの知り合いからもろたんやけど、どないか使い途あれへんやろか」
見れば普段求める紙の白さに比べて、鈍く赤みががった色がついている。
惚れた男の贔屓目もあったのだが、源兵衛はむしろ興味深いと感じた。白い餅を供えるのに、白い紙を使ったとて味気が無い。しかし店主でもある父親からは叱責を受けた。感じた趣きを訴えたところで聞かれはしない。
「餅も紙もまずもって、縁起物やろが!」
そこは実際その通りである。とは言え父親も、源兵衛の心持ちを一切汲まない者でもなかった。
「別嬪で、気立てが良ぉて仲もええてなれば……」
汲み取れたところで致し方がないだけである。
「嫁に貰うんは、やめとけ」
山頂を目指す最後の、宿場町なのだ。ここより先は女の気配すら拝めない、となれば、美しければ美しいだけ夫があってさえ、大枚を叩いて所望される。
その後程なくして源兵衛は、急な病を得て亡くなった。枕の下に敷かれていたあの赤みがかった紙には、彼の姓名と隣に女性の名前が記されてもいて、愚か者と涙がちに笑われながらも思いの丈は知られた。
女性の方では訪れが絶えた常連客を惜しんだ程度であったという。
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