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妬みと蔑み

 千手観音は餓鬼界を見守っていらっしゃると聞いた時に、
 物悲しさがたまらなかった。
 これほどのお姿になるまでに、
 一体どれだけを強く求められてきたことか。


 私の個人的感覚に基づく理解なので、
 聞き流して頂いても構わないのだが、

 持たざる者が持てる者を妬む心はもちろんとして、
 持てる者が持たざる者を蔑む心も、
 妬む心と表裏一体、
 同等の害悪に成り得ると思っている。

 しかしながら蔑む心に関しては、
 仏教的教諭を受ける場においても、
 妬む心ほどの明確な、
 説教を受けた覚えが無い。

 つまり僧侶であってさえも、
 気付く事が難しい心なのではないだろうか。
 これは憐れみの心であり施しに繋げるべきだと、
 正当化してしまいそうだ。

 施しに至る分まだ結構と思われそうだが、
 相手の悲しみも和らげず苦しみも取り除かない、
 要らん施しになる時があり、
 その場合は蔑む心が関わっていると思う。

 相手を「持たざる者」としか眺め切れていない。



 他に持っているものや、
 むしろ満ち溢れているものがあるかもしれないのだが、

 通常平均的に持っているものを持たない時点で、
 何か憐れむべき事情があるように、
 事情が無ければ異質であるように感じてしまう。


 対処法としてはこちらも、
 妬む心と同様「足るを知る」ではないかと思う。

 持てる者は、
 自分が持っている事に、
 持っている品々の一つ一つを、
 可能な限り自覚し、
 持たせて頂けた事を有り難く思っていなければ、
 いつかバチが当たると私は思っている。

 そこに気を付けていれば、
 持てる者は何も優れた存在ではなく、
 ただ持たせて頂けただけだと認識していれば、
 持たざる者は蔑むべき存在ではなく、
 ただ今現在その状況にあるだけだと分かるだろう。

 そして持ちたいか必要かは個々人の状況による。
 憐れみ施すには心よりもむしろ、
 個々人とその状況を見る必要がある。

 そこを「良い人」に思われたがったり、
 「冷たい人」に思われる怖れがあったり、
 「冷たい人」に思われた結果現実に不利益を被ったりもするから、
 多くの場合に間違える。

 大切なのは心ではない。
 あくまでも、どこまでも、個人だと思う。

 

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