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【万華鏡】書くこと

 はじめましての人も、
 前から知ってる方も、
 ごきげんよう。

 偏光です。

 改めて思い返すと書いてない。

(文字数:約1500文字)


  かつて私は書く行為そのものが大好きだった。

  ……と、言いたいところだが、

  ここはあえて正式名称で言うと、
  ワードプロセッサなる物の存在を知らず、
  知った後も自分個人のために購入・所有できるなどとは、
  考えも付かなかった頃には、

  書くとはすなわち、
  形状に、色味や質感は様々だとしても、
  まっさらな紙に向かって、
  自らの手指で操る筆記用具で、
  一文字ずつの、
  インクや墨汁や炭素の粉を染み付かせる、
  という行為であり、
  それ以外には存在しなかっただけだ。

  今やボード上に並んだキー配列を、
  わざわざ脳内でローマ字変換しながら打ち込み、
  画面上に日本語変換表示されてくれる文字列を、
  目視確認しながら、
  誤変換などがあれば時折修正する行為になっている。

  今時フリック入力だよ、
  と笑われてしまうかもしれないが、
  それもローマ字入力の一変形なんだ。

  日本語使用者は本来、
  何行の何列目あるいは方向などを、
  脳内でほんのかすかにすら意識しないまま、
  「こ」を
  「ち」を
  「ふ」を書き記せたばかりか、
  「東風」と書いて「こち」と読ませる、
  離れ業までやってのけていたはずだ。

  それはともかく今や私が大好きな行為は、
  (キーボードを)打ち込む事に変わってしまった。

  書いていない。

  つまり「何らかの文章を生成する行為」
  という最終目的が共通であるために、
  実際の手指を使っての行動そのものは、
  もはやほとんど問われなくなった。

  AIで、あるいはAIが、書く、
  という表現にも、
  それほど違和感がなくなってくるわけだ。

  ここで気になって、
  「書」という字の字源を調べてみた。

  「日」の部分が大きく変化したようだが、
  無理やりに結び付けて表すとしたら、

  「手に持った道具によって、
   日々の様々な事柄をまとめ上げる」
  行為を意味する。

  元来は「手に持った道具」であった。

  まさしく書く行為が大好きだった頃の私は、
  時折辞書を引きながら、
  一文字ずつを書き記していくその行為に、

  自らの手指とその動きにより、
  呪力、とも呼べそうな念を込めていた気がするが、

  打ち込む、にそこまでの呪力が宿るかどうか。
  言葉に語句の一つ一つも、
  書く、ほどには重要なものに、
  思われなくなっていくのではないか。

  ……と、適当にまとめて切り上げたいところだが、

  料紙に、良質な墨や筆を、
  いつでもふんだんに使えていた身分の者であれば、

  自らの頭の内に、
  わざわざ文語体で組み上げた文章を記述する際の、
  筆運びのスムーズさは、

  キーボードを打ち込む速さに変換スピードと、
  それほど遜色が無かったのではないか。

  もしかすると古典籍時代の感覚に、
  かえって立ち戻っているのではないか。

  そうだったら面白い。

  過去に比べて優れているとも劣っているとも、
  言い切れない点が小気味良い。

  単に私はそう思った、
  だけの話だ。

余談だが「万華鏡」という一語こそ、
筆記用具で書いてみたい語句の筆頭に挙げ切れそうだ。

「万」の左右かつ上下バランス調整に、
「華」の最後の縦線の勢い。
「鏡」の最後の弧を描いた後の跳ね上げ。

どれをとっても手に指先が、
一種独特の達成感を得て法悦に浸りそうだ。

今の時点で明言しておきますが、
私は語句文章を対象にした、
わりと珍しいタイプの変態です。


以上です。
ここまでを読んで下さり有難うございます。

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