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番外編『旋律の外』

第1話(末尾に全16話分のリンクあり)

注:こちらは創作大賞2024の応募内容に含めません。
  15話と16話の間に存在するエピソードです。

  人によってはこれが無ければ完成しない事を、
  理解してくれると思いますが、

  人によってはそもそも理解できない内容であり、
  初めから存在しない事にした方がいいです。

  その上でやはり読みたい方はどうぞ。

(文字数:約9900文字)


旋律の外

 お客様用の駐車場に、ウチの軽自動車が停めてあったから、もう帰っているって何も疑わずに、玄関の引き戸を開けて、
「ただいま」
 って声をかけた家の中は、廊下にも居間にも明かりが無くて、玄関の明かりだけで静かで誰の声もしなくて、一瞬家を間違えたかと思った。
 台所の扉が開いた分だけ廊下に光の帯を作って、おばあちゃんが顔を覗かせて来る。
「ああ弓月ゆづき。おかえりよ」
 薄暗いせいかちょっと元気が無いみたいに見える。
神南備かんなびは?」
「今は、大丈夫でよ」
 ため息と一緒に言ってくるから、ちょっと前まで大丈夫じゃなかったって分かった。
「鬼神楽の途中から泣き出さしてな。帰るか? て訊いたけども、目から涙は流したまま、『最後まで観る』て」
 隣についていれば良かったなって、後悔しそうになったけど僕が決め切れた事じゃない。
「うん私もねぇ、今年は何やら悲しかった気のするでよ」
 廊下の奥から扉が開く音がして、多分お風呂上がりの神南備が近付いて来た。クセのある黒髪は下ろして、着ているものも長袖のパジャマで、いつもの感じでホッとしたけど、
「弓月くん……」
 僕を見つけて神南備は、メガネ越しの目に涙を浮かべ始めている。
「ごめん。遅くなった」
「神南備ちゃん、どないした? また泣きよんのか?」
 おばあちゃんが心配そうに寄り添いに行くけど、
「おばあちゃん、しばらく二人だけにさせてもらえる?」
 声をかけたら立ち止まって振り向いて来た。
「物置小屋で、話すだけだけど。何かあったら叫んでもらうから」
 身体全体でくるりと、神南備を振り向いて、またくるりと、僕を振り向いて、神南備が玄関に立つ僕に近寄るまでくるくるやっていたけど、
「神南備ちゃん、その手に持っとるもんは預かろかい」
 ってバスタオルなんかを引き取って台所に運んで行ってくれた。
「神南備」
 僕は玄関の土間に立ったまま、段差分を見上げている。
「その……。ウチの神社とは、全然……、何もかも、違ってて……」
「うん」
「今までの……、色んな事思い出して……。ねぇ弓月くんあの……『中の人』って大丈夫、なのかな」
「大丈夫、だと思うよ」
「全然返せてない……、感じがしたの……。御詠歌なんかじゃ、何も……」
「そうだね。だけど、音谷おんやに帰るから」
 そこで目を上げて僕を見て、
「好きな人が待ってるから、それで、大丈夫なんだと思うよ」
 涙を拭いた後で一つ、うなずいてきた。

 外に出て家の引き戸を閉めた時に、神南備が言ってきた。
「部長に会った」
「うん。僕も」
 今は雨戸を閉めてある縁側に沿って、家の端まで歩いて行く。
「部長は、神南備の事が好きだよね」
「うん。だけど部長は、弓月くんの事も好きだよ」
「うん」
 家の外壁に貼り付く感じで、雨避けのプラスチック屋根の下に、タテ型の洗濯機。
「『友達になろう』って言われたよ」
 神南備がちょっとだけど吹き出して、やっぱりおかしいよねって僕も、ちょっと笑った。
「だけど、ならなかった」
「うん。だって弓月くん、部長の事好きだもん」
「うん」
 石段、って言うのもちょっと贅沢に感じるくらいの、その辺で拾った石を三、四個、積み重ねたみたいな段差を下りて、僕達には肩くらいの高さの板戸を開ける。
「女の子だったら弓月くんが付き合ってるよね」
「そうだね」
「否定しないんだ」
「うん。だけど僕、女の子じゃないから」
 身を屈めながら入ってすぐの、トタン壁にあるスイッチを入れると、女の子と二人でいるなんて気持ち吹き飛ばすみたいな明るさの、LEDが点いた。
「広い」
 神南備はまずそう言って、物置小屋中を見回した。僕も、来たばっかりの頃は余裕でここに住めるって思ってた。
 スイッチは壁の面積をちょうど半分にする位置で、奥の半分にこないだ刈った草を詰めた米袋が二十個くらい並んでいるけど、昔は使っていたトラクターを、処分して出来たスペースに、ダイニング用のテーブルが置いてあるしイスも並んでいる。スイッチの先の半分は普段駐車場で、軽自動車が無いのは頼んでおいたし分かっていたけど、いつもは並べて停めてある軽トラックも無くて、僕は少し驚いた。
「おじいちゃん、どっか行った?」
「うん。ひと晩停めておける場所見つけに行くって」
 一台分が空いて外から見えていれば充分かなって思っていたのに。
「信用されてないなぁ僕……」
「信用、がどうこうみたいな感じじゃなかったよ?」

 シャッターは完全に開き切ったままで、テーブルに並べられた椅子に、一人ずつ並んで座って外を眺めていると、街灯もほとんど無くて真っ暗な中に、他所の家の明かりだけがまばらに浮かんで見える。
 国道に面しているから時々乗用車だけじゃなくて、大型のトラックも地面を揺らしながら通る。道路の向かい側にあるガソリンスタンドに入る時には、警報音に「バックシマス」とか聞こえてくる。
「田舎だよねぇ。やっぱり、こうやって見ると」
「うん。だけど、良い所だよ」
「神南備はそう言ってくれるけどさ、大変だよ? やっぱり。毎日暮らすってなったら」
 空気がおいしい、みたいな言い方されてもよく分からない。田舎に住んだから身体が丈夫になった、わけじゃないよなって僕は思っている。
「夏は暑いし冬だって、寒いなんてもんじゃないし、外の水道管凍るし、それでもまだふもとだからもっと上よりはマシだって、意地張ってるし、うちの畑にはイノシシだって出るし毎年ちょっとずつ、数が増えてる気もするし」
 イノシシ、で思い出した話があった。
「こないだひどい臭いがするなって」
「うん」
「近所のドブにハマって出られなくなったみたいで、イノシシが死んでた」
「うそっ! ホントに?」
「ホント。まだ子ども。うりぼう。だけど、こんなにひどい臭いするんだって、役場の人が来るまでみんな顔しかめながら、そのドブの前通ってた」
 鼻が曲がりそうな臭いって、言葉には聞くけど実際に嗅ぎながらの生活って、強烈で、ご飯なんか喉を通らないし吐きそうになるけど、本当に吐いちゃうわけにもいかない。はっきり言っちゃうとそれって、死んだ臭いで、腐って行く臭いで、自分はまだその臭いに近付きたくないって思うんだったら、慣れちゃえるんだな人間って奴はって、自分でも呆れた。
「そばを通る度におばあちゃんは、ハンカチで鼻、押さえちゃいるけど泣くんだよ。かわいそうになぁ、まだ子どもやったのになぁ、って。毎年畑荒らされて、多分ソイツらの子どもだってのに。それ見ながら僕、なんだって、おばあちゃんにとっては僕もうりぼうも、大して変わらないやって」
 ふっと出て来た笑みを神南備に向けると、神南備の方でも微笑んでいた。
「僕はこれ、面白かったとか、嬉しかった話のつもりなんだけど」
「うん」
「誰か知らない人が聞いたら、きっと、怒らせるか心配させるよね」
 きっとおばあちゃんを身近に見て、泣き顔にしゃべり声まで知っていないと伝わらない。
「普通じゃないんだよ。もう、僕達くらいの年の、ほとんどの人には。信じられないとか理解できないとか、どうしてそんな所で暮らしてるの、もっと便利な所に住めば良いのにって」
「だけど、ほら、『河内國は独立国』だし」
 神南備が言いながら、ちょっと笑った。
「『普通には従わない』って?」
 僕も、ヅラだった頃の部長を思い出して、ちょっと笑って、
「確かに従ってたら、多分一生かかったって言えないや」
 ため息の後肺の奥深くまで、息を吸ってから口にした。
「好きだよ」
 神南備の方に身体を向けて、出来るだけ、顔はまっすぐ見るように気を付けていた。
「今すぐじゃなくて、もちろん良いんだけど、この家で一緒に暮らしてほしい」
 だけど、神南備の返事を聞く前に、
「って」
 何だか頭のどこかで呆れちゃった。
「僕達の年で普通思わないし言わないよね。親御さんに話したって、『まだ高校生なんだし』ってまず信じてもらえないと思うし」
「『今決めなくたって良いじゃない。社会に出て、もっと世間を見てからにしたら?』って」
「だよね? 悪いけど僕その辺の社会人なんかより、充分世間を見尽くしてきたと思うんだけど」
 口に出来た途端にこれまで溜めてきた不満がお互いあふれ出してしまう。
「私、とっくに返事したつもりでいたんだけど」
「ウソ。いつ?」
「『神様の、お食事を作る役目です』って」
「いや分かりにくいよそれ」
「はっきり言ってもくれてないじゃない」
「ホントだ」
 全然良い雰囲気とかじゃないんだけどいつもの僕達っぽくって安心する。
「考えなきゃいけないんだ僕の場合。だって、間違い無くおじいちゃんおばあちゃん、二人の介護がついてくるよ」
「だよね」
「みんな病気になったり動けなくなったりしてからが介護、みたいに思ってる気がするけど、要するに、同じ家の中でちょっとずつ弱って行く二人を、見守りながら暮らすんだって、もうそこから始まっちゃっているんだから」
「もう明日からでも良いんじゃないかなって気が正直してるんだけど私」
「すっごく助かる。本当にさ、早ければ早いほど良いんだよね出来るなら。親もやった事無いし、正解とか分からない。相談したくたって同い年くらいの友達とは、毎日の、ちょっとした話題すら合わないよ。友達よりも色々な事が、どんどん早いうちに決まっちゃって、きっと友達よりも早く老ける」
 自分だけならともかく好きな子に、これからの人生決めさせちゃうんだって、そんな、ほとんど絶望みたいなもの感じながらプロポーズしてる人、大人にだってどれくらいいるんだろう。
「同窓会とかで『かわいそう』って言われちゃうけど」
「いいよ別に。同窓会とか出る気無いし」
「今から決められるの?」
「弓月くんは?」
「うん。出ないね。友達とだけだよね会いたいの。で、普通に会ってると思うし」
 じゃあ何も問題無いみたいな気がしたけど、
「今、僕はここでは、貴重な若者だから」
 僕にとってはすごく、身体が芯から震えるみたいに、怖い事が残っていた。
「みんなが気を使って、優しくしてくれるからやっていけてるけど、そういうのが無かったら」
 すぐ忘れちゃうんだ人って。本当は、ずっと毎日気を使ってなきゃいけないって事を。
「若者が、普通にいて暮らしてて当たり前だって、一人一人が何やったって喜んでも誉めてももらえなかった頃だったら、ただ好きって気持ちだけじゃ、潰されるんだ。絶対に」
 お父さんの世代の人達が、この辺りからすっかりいなくなって、今はみんなが困り続けているからだ。嫌味に聞こえるだろうから口になんか出せないし出さないけど、お父さんのおかげでもあるよなって、僕は親の世代を悪くも思えない。
「だけど僕は、それが分かってるから」
 気を使わなくても良いなんて、ウソだって。そんなのは、楽しくも幸せでも、本当には相手を好きでもないんだって。
「不満とか、問題があったら聞くし、一緒に考えるし、誉め方が足りないって思ったら、言ってもらえたらすぐ誉めるし」
「『言われなくたって気付いて誉めて』とか」
 言いながら神南備は笑っているから、僕も笑う。
「無理だよ。こっちはとっくに誉めてるつもりでいるんだから。足りない分はお互い、申告制」
「うん」
 って神南備がうなずいてきて、僕にとってはどんな言葉よりも、その時のその仕草が嬉しかった。
「うん。それくらいかな。僕が普通よりも少しはマシみたいに、思えるところって。だからって何の保証にもならないけど、今のうちからちょっとずつ、準備とか、親を説得とかして」
 全然ちっとも良い雰囲気じゃないんだけど、僕にとってこの言葉って、雰囲気なんかでごまかし切れない現実だ。
「高校卒業したくらいに僕と、結婚してくれる?」
 神南備は口をつぐんでまず、メガネを外して、その時はああはっきり見ようとしてくれてるんだなって、嬉しいみたいな気持ちで待っていたけど、折り畳んだメガネを振り向いた先の、テーブルの上に置いてから、僕に向き直ってだけどすぐに、うつむいてしまった。
「ごめんなさいっ……」
 え? ここにきて断られるの? って一瞬ものすごく驚いた。
「じゃなくてっ……、そのっ……、私も私の方でも今日は、話があって……」
「ああ。うん、ごめん。そうだ。つい僕の話しちゃったけど」
 だけど、ある程度同じような話をしてくるつもりかなって思ってた。
「言わなきゃっ……、いけない事があるの弓月くんにっ……。そのっ……」
 うつむいて目を固くつぶって声を震わせている。
「私……。私、ね……」
 声だけじゃなくて身体全体も、見ていて分かるくらいに震えてくる。
「処女じゃないの……」
 一瞬だけひかるが頭によぎったけど、
「父の、知り合いでっ……、ウチの神社の大祭で家中がバタバタしてる間、預けられててっ……」
 晃だったら全然良い、まだしょうがないって思い切れるって、思い出しただけだ。
「ちょっと待って。ごめん」
 聞きたくない、って口から出そうになったけど、それはどうにか飲み込んだ。
「もう、その人とは?」
「会ってない! お父さんにバレたからバラされたから、私がバカだから絶対に会わせないって!」
「だったらその……、今無理に話さなくたって」
「だって……! 話さなきゃ知ってもらわなきゃ私……、弓月くんに、そんなの好きでやってたなんて思われたくないよぉ!」
 僕ネタにしてBLとか書いて、よく平気だなって思ってたけど、
 神南備は、だから、自分でイメージ出来ないんだ。どれだけ僕の事好きになったって、そういう事してみたいって思ったって、自分のそうした姿は頭に思い浮かべるのも耐えられないくらいに、酷い気持ちにさせられている。
「ねぇ悪い子? 私、そんなに悪い子? 勉強だって私、言われなくたって一人でずっと頑張って来たよ?」
 耳を塞ぎたいみたいに両手で、頭を抱えて取り乱して、僕にも覚えがある感じで見ていたら息が苦しくなる。
「だけど……、家のみんなに知られてから私の話、誰もまともにそのままで、聞いてくれない……! 今日ここに、来るのだって、『また同じ目に遭いたいのか』って! そんな言い方しないで! そんな言い方しないで!」
「ちょっと待って。え。家から許しもらえてないの?」
 僕の声でちょっと我に返った感じに、顔を上げて親指を立てて、目には涙がいっぱいに溜まっているけど、口には笑みを浮かべてきた。
「ここの電話番号渡しました」
 グッジョブ、って口にはしなかったけど頭に浮かんできた。
「市外局番付きの、家電だったんで、そこにまずお父さんビックリして、お説教中のリビングからその場でかけたら、おばあちゃんが出てくれて、早口の方言で思いっきり、誉めちぎってもらえました」
 それは今初めて聞いた、と言うよりおばあちゃん、その事全然僕に話してくれなかったな。
「『大事な娘さんは丁重にお預かり致します』とか、『私の目の黒いうちは孫に失礼など致させませんので』とか、スマホのスピーカーで部屋中に流れて、お父さん、『はぁ』とか『それはどうも』くらいしか言えなくなっちゃって、最終的にスマホに向かって頭下げて『よろしくお願いします』とか言っちゃって、結果オーライです」
 おばあちゃんの顔形にしゃべり声まで浮かんでいないと、伝わらない話かもしれないけど、僕はホッとして、
「良かった」
 まだ震えている神南備を、椅子に座ったままだけど抱き締めてしまった。
「良かった。神南備が強い子で」
「強くなんかないよぉ……」
 近寄せてはいるけど座面に背もたれの木枠が邪魔で、両腕に、胸くらいまでしか密着できない事が、今はちょうど良いような気がした。
「好きなもの、自分できちんと選べる子で」
 言葉に声を選ぶ余裕がある。
「それで、お姉さんは気合い入っちゃったんだ」
「そう。お父さんへの腹いせとか、当て付けみたいに」
「すっごく仕上がってたよ。そう簡単に手なんか出せない感じに」
 間近に顔を見合わせて、濡れた頬を親指で拭ったり、
「余計だったよね」
「ううん」
 吹き出してきた唇にキスしたり、
「悶々としてた」
「ホント?」
 キスの間クセのある黒髪を、指先でなぞってみたりした。
「ごめん。正直に言って悔しい。僕が最初になりたかった」
 どうしても、口に出さずにいられなかった分はもちろん、フォローくらい入れなきゃ。
「だけど、それって数に入れなくて良いよね」
「うん」
「僕が、最初で良いよね。だって、自分で選んだんだから」
「うん」
 もう何回目か分からなくなってきたキスを続けながら、肩までの髪を撫でていた手を、もう少し胸の辺りまで下ろしちゃおうかなどうしようかなって、ためらっていたところで、

 警告音が鳴った。

 バックシマス ピー ピー バックシマス
 大型トラックが向かいのガソリンスタンドからゆっくりと後ずさって、国道に向けてハンドルを切る一部始終を、僕も神南備も黙ったまま見詰め続けてしまっていた。
 トラックが走り去って、せき止められていた乗用車、二、三台が後に続いて、邪魔物はいなくなったって元の気分に戻れるわけでもなくて、
「ここじゃないよね」
「うん」
「あと、今じゃないよね」
「そうだね」
「もっとちゃんと、時間と場所選んでから」
 最後に軽いキスを一回してそれが区切りみたいに立ち上がった。

 引き戸を開けたらおばあちゃんは、分かりやすく両手を揉みながら、台所の扉辺りをウロウロしていて、入って来た僕達に「わにゃっ」って言った。
「おばあちゃん悪いんだけど、今夜は神南備についていてくれる?」
「話は出来たんか? 何の話かはばあちゃん訊かんけども、神南備ちゃんは」
 神南備の表情を見て少しはホッとしてくれる。
「僕はちょっと、物置小屋のカギ締めてシャッターとか、下ろしてくる」
 引き戸を端までしっかりと、閉め切って、自分の脚で家の裏を通って物置小屋に、また下りたはずだけど、頭には少しも入っていない。リモコンを使ったって良かったのに、わざわざ小屋の端の、シャッターに向かって、両手で引き下ろした鉄板が足元で響くのを感じた瞬間に、

 何かが千切れた。

 トタンの壁なんか殴ったら、酷い音が鳴って神南備に届くから、驚かせて脅えさせてしまうから、奥に並べてある草を詰めた米袋まで、駆け込んで行って蹴りを入れた。壁に掛けてある最近僕用に買った斧を掴み取って、倒れた袋に振り下ろす。
 振り下ろして振り下ろして、草が飛び散って床に刃を当てたらそれも酷い音がするなって、隣の米袋なぎ倒して、こんなもんじゃないもっと大声で叫び出したいのに! 気を使って暴れ切れずにいる僕を、間違ってなんかいないはずなのにお父さんにお兄ちゃんの声が笑ってくる。
 お前は所詮その程度だ。お前の気持ちなんかそんなもんだって!
 お前を好きになる奴なんか、どうせワケありの、問題を抱えた奴に決まっている。お前は醜いから見た目じゃなく心がねじれ曲がっているから、そうした連中ばかりを引き寄せる。現実が見えていない奴等しか、お前には近寄って来ないんだ、とか、
 自分からは何もしないで、努力したつもりでもその程度だ。人のせいにばかりして被害者気取りでいる奴同士、せいぜい傷を舐め合ってろ、とか、
 やかましい! 黙れ。黙れ。黙れ!
 って七、八個くらいの米袋を、ぐちゃぐちゃにして中の草を全部撒き散らした辺りで気が付いた。

 あれ? なんだ僕、身体、動くな。

 動くんだったら、みんなと同じように動かせるんだったら、僕、殺したい奴がいる。
 殺したい奴がいる。殺したい奴がいる。殺したい奴がいる!
 ずっと、ずっと諦めてきたけど僕だって、誰にも話せやしなかったけど今までに、相当な事をされてきて、
 神南備よりはマシだろうとか、男なんだから堪えられるだろうとか、神南備ほどの目に遭わなくて助かっただろうとか、そんなんじゃない絶対にそんなんじゃない! 粉々に、叩き潰された後の傷って歪みって、どれだけ見た目は整え切れたって、消えないんだ!

 神南備の家の神社、検索しろとか言ってきた奴がいたなぁ……。

 検索してそれで、何を知ったつもりか知らないけど、今目の前にあの顔があったら歯止めなんか効かずに叩き潰している。
 常眼寺で僕本当は、あと一つ、質問したいって思ってた。

「助からなくてだけど、まだ生きている人は、どうしたら良いんですか?」

 さすがにずっと僕ばっかりしゃべり過ぎだなって。違う。あの時は、

「部長って、弓月くん?」

 って、神南備が止めてくれたんだ。
 訊けば良かった。いや訊かなくて良かった。神南備はきっと聞きたくなかったから。いや無意識で、頭では何にも気にせず止めたのかもしれない。そうだったらいい。
 畜生御詠歌なんか、分かってたけど何の役にも立ってくれないじゃないか!
 助かったなんて、生きてさえいればそれで充分だなんて思えない。思えるわけない! どす黒く濁ったままで、傷が入って大きく歪んだままで、中心に据えたって、周りに伝わる良い声なんか出せるもんか!
 無理だ! 絶対に無理だって!
 だけど、

    不可能ではない

 って、これ以外に正解は無いみたいな、笑顔で声で聴こえてきた。
「へはっ」
 ってまずは苦笑いが、飛び出したけど、それはいかにも最後の悪あがきで、とても逆らえないって気付いてしまった。だって、
 好きな人の、好きなものを、好きになった時の言葉だ。

 晃だけじゃない。おばあちゃんもおじいちゃんも、神南備も足助も、廣江さんも林さんも新発田も新発田の工場の人達も、
 今僕の周りにいる、僕が好きな人達は、みんな、僕の「声」を聴いてくれた人だ。
 言葉にして口から出されなくたって、耳では聞こえないし僕自身にも分からなくたって、生まれた時から止まらずに、離れもせずに鳴っていて、聴こえた人から僕に気付いてくれる。
 僕の事が気になって、無視できなくなって、声を掛けて近寄って来てくれる。気に入った理由なんか分からなくても、居心地が良いってそれぞれに、ちょうど良い距離を空けた所にいてくれる。だから、
 僕の「声」なんか、聞こえもしない気付きもしないで踏みにじった人達とは、全然違うって言い切れる。
 選び出せる。僕は、僕の「声」が響いて戻って来る方向を。だから僕は、あの日おばあちゃんの声を聞いて立ち上がったんだ。
 自分の脚で歩いておばあちゃんの、あの軽自動車に乗って、自分の手で引き伸ばしたシートベルトを締めた。
 あの時立ち上がれていなかったら僕は、今日のこの時間きっと、この世に存在すらしていない。

 ダイニングテーブルから奥は、一面草まみれになった小屋を見回して、まずはため息を付いて、
 斧は壁に掛け戻して、倒した中でまだ使えそうな米袋が無いか確認して、無理な分はストックしてある空の袋を引っ張り出して、両腕にかき集めた草を、とりあえず袋に押し込んで行く。
「いーぃろーはーにーおぉえーど」
 作業の間何を考えてしまうのも面倒臭い感じがして、「いろは歌」を唱える時みたいに口を動かしていた。楽譜見なくてももう口が覚えているし、
「えーいぃもぉせーずー……いーぃろーはー」
 終わっちゃったらまた最初から繰り返したって構わない。
「弓月」
 振り返ったら板戸を開けた所におじいちゃんがいて、だいぶ片付いてきたけど何かやらかした事くらいひと目で分かる。ごめん、とか、手伝って、とか僕が言う前に、おじいちゃんは一つうなずいて手を貸してくれる。
「神南備ちゃんと、ケンカでもしたか」
「大丈夫。ケンカは、してない」
「そうやろうな」
 声の調子で神南備には気付かれていないし、今神南備は落ち着いているんだなって分かった。
「神南備と、付き合う事にした」
「ほえ?」
 驚いた時の声、神南備にもうつっちゃうかもしれないって、ちょっと笑った。
「付き合いよらんやったんか?」
「これから。真剣に」
 最後まで残る細かい草を掃き取るためにホウキを出す。
「明日神南備を家まで送って、都合が合うようならお父さんに、挨拶してくる。心配かけさせたみたいだから」
「ほーぉ、弓月が。へーぇ、挨拶を。はーぁ」
 っておじいちゃんの相づちは、感心してるのか呆れてるのかよく分からない。だけど身を屈めてチリトリをホウキの流れに向けながら、口の端だけ持ち上げて「ふっへっへ」って笑った。

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