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『虹の女神』第3話:家の要

 第1話(末尾に全6話のリンクあり)
(文字数:約7100文字)


第三話 家の要

「なんねあんた、ずいぶんと余裕でおるやかね」
 わざわざ姉を、更に不機嫌にさせてしまった不始末は認めるが、桂壽の側にも言い分はある。
「余裕もなんも、一年も前からとうに決まってあった話じゃいけん」
 この一年では何をしてきたかと言えば、それはもちろんヤケしゃんの仕事を、卵売りを、習い覚え手伝うために隣の家に通っていたのだ。
 と、言うよりもこの縁談自体が、家に土地を、それ以上に仕事を継いでくれる男子が欲しい、と望んだヤケしゃんが、養子に迎えてオトの婿にするのが筋だろう、と決めていった流れだ。幼い頃からオトが好きだ、可愛い、いつか嫁にしたいとやかましかった幹雄は、どうもその辺りの心根を、耳にも頭にも入れておらず、桂壽か幹雄かを選ぼうという段になっても、オトへの想いばかりをひたすらに、訴えていたが、
 卵売りになる気は無い、シエも嫌いだ、同じ家の内でなんか暮らしたくない、などと言われてしまえばヤケしゃんも、そこから先をどうしようもない。
 ヤケしゃんは本当のところ、シエさんを大切に思っているのに! それ以前に母親の不満など、日頃こぼしてもいないオトの前でだ! 桂壽の方がいたたまれず、その場を納めるために話を受けてしまったようなところもある。
「幹雄の気持ちも、オトちゃんの気持ちももう分かっておったとやけん、自分から身ば引いたなら良かったとに。弟相手に大人気ん無か」
 その場に居もせず見てもいなかった姉に、決め込まれる筋合いは無い。
「幹雄はともかく、オトちゃんの気持ちまで分かるもんな」
「今ん今まで好いとるごとはっきり言われてもおらんなら、あんたに気持ちは無かとやろ」
「幹雄への気持ちもなん言われちゃおらんぞ」
「言えるもんね。父親に気ば遣ってそがん事は。娘ん口から」
 一拍詰まってしまったのは、姉が自分の事も引き合わせて今言っているように思えたからだ。
「自分の事は好いてもおらん、気にしてもくれん人と、一緒にならんばて」
 ただし、一拍だけだ。そもそも男女の別があり、同情し切れるわけでもない。
「オイが気持ちまで、勝手に決めるな」
 表情を変えず落ち着いた声色であり続ける事は、兄弟の中で長く幹雄の世話役だった事もあり、おそらく他の者より慣れている。
「気持ちの面ではオイは、何も幹雄に負けるごとは思いよらん」
「顔は負けよる。大幅に」
 しかしながらフサは、長く桂壽の世話役でもあった。
「ひっ……っちゃぐらしかなぁ! 姉ちゃんはぁ!」
 弟がどういった言い方に反応し、どういった態度を見せれば感情を露わにするかくらい、フサの方で無意識の内に心得ている。
「何な! さっきから、オイの腹ば立たせて何になるとな!」
「分かってはおっとたい。自信のあるごたる言い方ばするけん、鏡ば知らんとかて思た」
「はぁあ? そがん、自信のごたっとはあるもんな! 姉ちゃんが、何か知らん言うてくるけん、返さんばいかんごとなるっちゃろ!」
「ひっちゃかましかな! ワイたちゃ何ばおめきよるか!」
 戸が開いて入って来た父親が、声の主に意外そうな眉を寄せた。
「桂壽」
 人前で怒鳴ったり騒いだりなどは、まぁ滅多にしてこなかった次男だ。
「お前はこん家のかなめやいけん、一番奥に落ち着いて座りよかんば」
「家の、要て」
 鼻で笑ってくる様子が更に怒りを増すのだが、父の手前桂壽は退くしかない。
「今にも飛んで行くごたるあばら屋とに」
「フサ」
 これが幹雄であればもっと強い叱責が飛ぶのだが、最初に生まれた我が子で村での評判が良かった長女に、男親は少々甘いところがある。
「儀式じゃ。おかしか言い方は避けれ」
 本来挙式は婿側の実家で、執り行われるものだが、桂壽は婿養子なので特別に「家別れの儀」が必要になる、と長老が言い出した。本当のところは皆信じてなどいないのだが、長老は、村の縁起や運勢の良し悪しを取り仕切っており、根拠は無くともその発言は、気持ちの上で絶対になる。
 板屋根に、壁や戸には船の帆に使う布を張った、儀式のためだけの仮小屋を作り、花嫁が来るまでの間婿側の家族はなるべく皆がそこで過ごす。式が終われば壊してしまう仮普請とは言え、これは実家の「見立て」であり、もちろん紋付きの羽織袴で正装の桂壽は、家の一番奥の中央に鎮座し、この土地に眠る先祖代々の霊魂を、なるべく多く引き寄せていなければならない。
「分かった」
 と桂壽は引き受けたが、言わば舞台設定に筋書きとして理解したまでだ。
「なるべくなら実家と寸分違わん造りにしてもらいたかとじゃいけど」
 そう長老は呟いていたが、長老の他には誰も見た事が無く、長老の覚えすら、子供時代の数回程度であったので、ふた間しかない離れの造りを模す事で勘弁してもらった。
「幹雄の戻っておるとかて思うた」
「ヤケしゃんと出た切りな。雨も落ちてきたごたるとに」
 父と長男の話し声を聞きながら、桂壽は改めて身を落ち着け、息を整える。

 村で集めた卵を、山一つ越えた先にある温泉町に卸す、卵売りという仕事は、どんな仕事でもそうだが中に手伝いに入ってみると、ただ外側をなぞっただけのものではなかった。
 卵一個に受け取れたお金で、塩漬け鰯が十尾買える。まれには豚肉さえ手に入る。ヤケしゃんが来た晩はごちそうだ、と桂壽にも子供心から染み付いている。
 村の全ての家々を訪ね歩き、そこに暮らし出迎えてくれる人々と話をして、話を聞かされ困り事であれば対処を考え、他所の家や温泉町にも相談して、まとまった金が要り用なら工面して、といった事柄の集合で、
「大丈夫じゃ。なん、心配は要らん」
 そうヤケしゃんが口にする時は、確かに「自分達はやれるだけの事を全てやってしまった」後だった。
 桂壽はそこがどうにも上手くない。そう自分では思っている。
「オイ達にやれる事はもう、なん無かごて思います」
 そうはっきり口にしてしまうし、古くから、ヤケしゃんに馴染んできたヤケしゃんこそ正しいと思ってきた人達を、驚かせるか怒らせる。
「良か良か。そいで」
 ヤケしゃん本人はにこやかと言うよりも、どこか引きつった笑みを見せてそう言ってくれるのだが(そもそも顔の半分が焼け爛れているのだから引きつって見えてそれで普通になる)。
「オイのやり口ばそのまま、引き継いでもらおうては思いよらん。桂壽は桂壽のやれる事ばやれるように、やってくれたならそいで」
「オイにやれる事のそがんにあるもんかどうか」
「そいば、考え切れる者じゃろ。桂壽は」
 習い覚えて手伝い、とは言っても、具体的に教えてもらえるわけでもない。ただ隣を付いて歩き話を聞き続けているだけで、考えるより他にしようがないだけなのだが。
「大丈夫じゃ。なん、心配は要らん」
 左右で不釣り合いな顔が、間近に見る者の感覚を狂わせ不満があったとしても黙らせるのではないか、といった、外側から村人の一人として眺めていた頃の、不埒な考えは消え去った。片側の笑顔しか、いや、全面に笑顔があったようにしか、頭の中には刻まれていない。
 この渡し方が出来るからこそ、ヤケしゃんはヤケしゃんで、卵売りというよりもヤケしゃんで、他所の卵売りとは違うこの村の卵売りだと、皆から特別に思われる人で、
 とても真似の出来るものではなかった。

 そもそもヤケしゃんの顔になぜ火傷の痕があるのかと言えば、かつてまだ若い時分に村の馬小屋で火事が起こり、火の海の中を分け行って馬を全頭救い出したからだ。
 中でも名うての臆病者で、飛び抜けて賢い馬でもあったのだが、とても助かるまいと皆が諦めかけていたその馬までが無事に駆け出して来たものだから、村中がそれはもう大騒ぎの大喜びで、逃げ遅れ火に取り巻かれていた彼に気が付いた者はわずかだけ。火を消し助け出し看病した内の一人がつまり、桂壽の父という間柄だ。
 臆病馬の持ち主でもありそれ以降、家族ぐるみの友人として付き合っている。
 そもそもなぜ火が出たのか、誰か火を点けた者がいるのではないか、といった不穏な噂が当時から、数年おきに現れるのだが、ヤケしゃんの顔半分にしっかり残った火傷と、村一番の高値で売れた臆病馬も同時に思い出されて立ち消えになる。
 ヤケしゃんだけが真相を知っていて、離れで煙管をふかしながら聞かせてくれた。
「小屋の内に転がっとった酒瓶に、射し込んで来た夕陽の当たって、ちょうど藁束に日の光の集まったとじゃな」
 離れの外には決して持ち出さず、吸っている事など村の者は誰も知らなかった煙管だ。
「ところがオイは、そいば見た途端にまぁ腹ん底の煮えくり返って」
 笑う息で吐く煙が小刻みになる。
「何ちゃ考えんでそん場から、蹴り出してしもうた。燃え残った小屋からは、何も見つからん」
 桂壽はその対面に、ほとんどの場合は正座でいる。
「そん話はオイの父ちゃんも知らんとじゃなかですか?」
「知らんじゃろな。オイも言うちゃおらん」
「なして言わっさんかったとですか……」
「言うたなら今度は、誰が酒瓶ば持ち込んだとか、馬ん小屋で酒ば呑んだとか、揉める元の持ち上がって来て、めんどかろうが。オイには分からん。誰にも分からん。不思議なもんじゃで、いっちょいたが良かごてある」
 何でもない事のように火皿の灰を落としていたが、桂壽にはどうも腑に落ちない。
「なして、馬小屋の近くにおりよらしたとですか?」
 一服一服を大事にする人で、間を持たせるために吸ってはいない事なら分かっていた。
「夕暮れに。こん家からは、離れておるとに」
 ヤケしゃんを疑っているわけではない。むしろ村の方だ。父親の話を聞いても幼い頃からどこの誰に話を聞いても、火事が起こるより前の、ヤケしゃんの話が出て来ない。まるで、火事と共にこの村に現れ出た人のように。
「火傷の、出来てくれたけんな」
 質問と答えとが噛み合っていない場合に、そこを指摘する者は不躾だ。語りたくはない事柄だったに決まっている。
「顔に看板の出来たごたるもんで、みんながオイの顔ば覚えてくれて、笑い顔ば見せながら挨拶なっとしてくれて、遠くからでもオイが来るとに気の付いて卵ば用意してくれて、仕事も上手かごと、回るようになってくれたもんじゃいけん」
 笑みを浮かべない間の右の顔は、父より三つ下とは思えないほど、老け込んで見えた。
「火傷の出来る前のオイとはもう、繋がりよらん」
 火傷が無い右側の額を、指先で叩いて、
「ここには、確かにおるとじゃけどな」
 ただそれだけでも痛くさせたみたいに、分厚い手のひらで包み込む。
「おるどころかここから、コイツば通して周りば見渡して、良ぅなったなぁ嬉しかなぁ、有り難かなぁて、言い聞かせてやりよるとじゃけども、そいでもここにおる者に」
 にこやかな笑み、もその時は、無理に作ったものに見えた。
「『良かけん顔ば焼いてみれぇ。何もかもの上手かごと、変わってくれるぞ』ては」
 自分で言いながら白けた様子で、溜め息をつく。
「言えるもんな。オイも、あがんとは二度と御免じゃけん」
 はっきりとは、分からない話だったけれど桂壽は、頭に残しておく事にした。
「いん。焼かれっとはもう御免じゃ。オイが死んだ後は土葬にしてくれ」
「死んだならもう焼かれよる事も分からんごて思いますけんど」
「いぃぃ嫌じゃ嫌じゃぁ。万が一にでも、分かってしもうたらどげんするなぁ。オイは今からでんそん事ば考えてゾッとする。今でん焼かれよる時の夢ば見て、熱かし痛苦しか時のあっとぞ」

 仕事を終えて時には離れでの話をして、夕飯も隣の家で済ませ、自分の家に戻るのはすっかり暗くなってからだ。提灯は持っているがロウソクは節約したいので、一本切りしか灯していない。
「桂壽さん」
 声に振り返ってもその姿は、暗さで良く見えない。石垣の上にある敷地から、石段を下りて来る輪郭くらいが分かる。
 いつもなら、敷地の内側で別れてそのまま、下りて来る事は無いのだが、
「何か、バタバタしよるうちに、明日になってしもうて」
 暗がりを、近付いて来る声に頷いた。
「そうじゃな」
 灯りが顔までは、照らし出さない辺りで立ち止まる。胸の前で、組み合わされた指先がもどかしげだ。
「桂壽さんは、その……、本当に、うちに来て良かと?」
「そいは……」
 その言い方はどちらかと言えば、ヤケしゃんに、訪ね歩き話をした人々の顔ばかりが浮かんでしまう。
「オイが決め切れるもんじゃなかな」
「そうやね。そいけど、その……」
 指先が、声を出す寸前に止まった。
「私で、良かと?」
「いいや」
 文言の、細かなところを妙に気にする質なので、桂壽はつい口にした。
「オトちゃんで、良かごとはなかな。オイは」
「え」
「オトちゃんの、良か」
 桂壽には、謎の沈黙が暗がりの向こうから返ってきた。
「オトちゃん? 聞こえたか。ちっと、どげんしたな」
「……そがんところの桂壽さん、フサ姉ちゃんから嫌がられるとよ」
 妙に、怒っている風にも聞き取れる。
「そいは、分かっておるとけども」
「はっきり分かってはおらんやかね」
 気が合っているような、どこかで通じていないような。
「役割ば、きちっとやってくれる人のおらすけん、思うたままば言い切れる者のおるとよ」
「役割ならオイもやらされてきたごたるけども」
「ほら」
 少し、笑い声が出た。機嫌を直したのか、こちらの気のせいで実はそれほどにも怒っていなかったのか。
「『やらされて』、て言えるだけでも、聞きよる者は驚かす。返す言葉の出て来らんで、腹立たしくもなるっちゃけん」
 そう思いきや普段あちこちから聞かされる苦言に近い内容だったので、オトがわざわざ何の話をしに来たのか、桂壽には今一つ掴めていない。
「そいけんオイはこん仕事には、あんまり向いちゃおらんごて」
「私も言いたかことの言え切れとらん」
「何な」
 一歩身を進めて来たオトの顔が、あたたかな灯りの内に浮かび上がったかと思うと、
「私も桂壽さんの良か」
 耳元に囁かれ、またふいっと暗がりに消えて行った。
「また、明日ね」
「ああ。また」
 と唇なら動かした気はするが、かろうじて分かる輪郭が、石段を駆け上がり確かに母屋に戻り入るまでは、桂壽は身を動かす事が出来なかった。

 と要するには、はっきり言われたようなものではあるのだが、その事を、はっきり姉になど言いたくはない。思い過ごしと疑われたり鼻で笑われたりといった事は、たとえ冗談にでも、あって欲しくない。
「ああ。もう、こっからも」
「うひゃあ。足袋ん濡れつらかして、参るごとあるなぁ」
 雨脚がひどくなり、思いがけず長くも続いて、板屋根の隙間から割れ目からも次々と漏り出した。桂壽は座っていなくては、という次第で、兄はともかく姉や妹に、屋根板や布の補強を任せ足元を困らせている事が苦々しい。
「先の、思いやられるね。あんたの要になったなら」
 そのくらいの嫌味であれば予想も出来るし慣れてはいたが、
「そもそもが、ヤケしゃんの跡ば継げるごと思いよるとか図々しかとさ」
 予想が付いていても言われたくはない事柄というものは、人それぞれにある。
「ヤケしゃんの、代わりに成り得る者なんか居るもんね。そんくらい、あんたも分かる者て思いよったとに。金か色か分からんけど、目のくらんでから」
「姉ちゃん」
 思うままであればもっと大声で怒鳴り付けたかったところだが、
「いい加減に、してくれんな。黙って聞いておったなら、そっちは思い付くままば考えんと」
 限界に近く腹が立っていても、姉に対する敬意は守ってしまう自分が、どこか滑稽でもあった。
「うん。もうそがん言わんであげて。桂兄ちゃんすねてしまいよる」
「そん言い方も違いよるぞツタ。すねる程度でなんぞ済まし切れん」
 目の前の色合いが滲んでくるのは、雨のせいばかりではない事になら気付いていた。
「目の、くらんだ程度で決め切れるもんな。腹の、内側からねじくれて、苦しかばっかりに決まっとろうが!」
 人前で、涙を見せる者は男ではないと、固く戒められている事がすでに腹立たしい。涙を見せ切れないから男どもは、無駄に怒鳴り声を張り上げて、返す言葉も見つからず時には、手を上げる者もいるのだと、まるで涙を見せるよりはまだ容易い話であるかのように。
「オイは、卵売りの家に入るとぞ! 村でただ一軒だけ、村の他の、全部の家に金ば配り歩いて回る家に! 姉ちゃんが嫁いだ先も、ツタが嫁いだ先も、オイ達ん家もこいからは全部が、腹ば割って話なんぞし切らん『お客様』じゃ!」
 声にまで涙は図々しく、混じってくる事がわずらわしい。今声に出している以上に伝わって欲しい言葉なんか、この先もきっと有りはしないのに。
「分からんか? オイ達が身内んごと、兄弟んごと思い合えるとは」
 頬を伝っていた分は、拭い取り一度息を吸い直してから口にした。
「今日が最後ぞ」
 雨が屋根を打ち、漏り落ちた分が床も打つ音だけがしばらく続いていた。その間に桂壽は、息も整え顔色も落ち着いた様子に戻していたが、
「ちっと、来て」
 背を向けた姉に従って、立ち上がる。兄が眼鏡も濡らした困り顔で近寄って来る。
「桂壽。お前はそこに座っとかんばて」
「小用にくらいなら立って良かて言われとる」
「そら小用はそうやろばってん」
 続きの間に出る戸代わりの布をめくりながら、フサが振り向いた。
「ついて来んで真純。桂壽と話ばしたかけん」


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