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『虹の女神』第2話:大輪の花

 第1話(末尾に全6話のリンクあり)
(文字数:約6300文字)


第二話 大輪の花

 はぁ、と聞こえよがしな溜め息をついて、フサが言い出した。
「婿ん側の母親が、花嫁に、付いて歩くて……」
 桂壽を含めた五人兄弟の、長男よりも更に年上になる姉だ。幼い頃から家の内で、女王の如き権勢を振るってきた。
「聞いた事も無かよ私。そがん話は一度も」
「オイも無か。ばってん、しょんなかろ」
 村の仕来たりで花嫁は、式までの間村の全ての家々を訪ね歩き、門前での祝福を受ける。花嫁そのものが縁起物とされるからだ。
 しかしオトの母親、シエは元からのこの村の者ではない。
「いくら他所から来た人で、礼儀とか、細かかとこまではしかっと分かり切らんでも、今日の今までに人に習うたり、教えてもろうたりちっとは出来たやかね。なんあん人。娘の晴れん日も祝うてやるごとなかと?」
 村外れにあった、オトの父親になる人の家に、逃げ込んで来たのは何もひどい雨からばかりではなかった。接してみれば桂壽には、決して気が合わない人でもない。と言うより、お互いなるべくなら余計な表情は見せ合わない質だ。
「あんた、あん人に嫌われよっとじゃなかとね?」
「はっきり『嫌い』ては聞かされておらん」
「誰がはっきり言うてやるもんね。そがん事ば」
義母かあしゃんは、散々聞かされとる。今んごと」
 もちろん引っ掛かりを持たせるため口にしたのだが、望んだ以上にフサは気色ばむ。
「あたしは! 何も嫌うちゃおらんよ! 花嫁の、母親であらすとにおかしくなかねって! ただそいだけやかね!」
 村中の誰もが、「あん人」か、良くても「シエさん」と名前で呼び、「あの家の奥さん」とも「オトちゃんのお母さん」とも、気にかけてはこなかった人だ。存在は知っていても、見ようとも、声を掛けようともしてこなかった。
「オトちゃんが、かわいそかってあんたも思わんと?」
「オイは何もそがんは思い切らん」
 むしろ、母親に向けられる冷たい視線を、その隣から眺め続けるよりは。
「優しゅうなか男やね。ほんに」
 フサからは決まってそう結論付けられるのだが、何も優しい者に思われたいわけでもなし、桂壽にとってはどうでもいい。
「ツタ。あんたはどげんあると?」
 急に水を向けられた妹が、「え」と戸惑う様子こそ気の毒だ。
「あたし……? どげんて、え……? なん?」
「オトちゃんが、かわいそうに思わんねて」
 のんびりと、わずかに笑みを浮かべながら話している妹は、ただ自分にとって過ごしやすくありたいだけなのだが、いつも気丈な姉を苛立たせてしまう。
「あたしには……、オトちゃんは、年ん近か妹のごたるもんやけん……、どっちのお嫁さんに、なってくれても嬉しかよ? 桂兄ちゃんでも、みいくんでも」
 は、と呆れ尽くしたと知れる溜め息をついて、フサは立ち上がる。白無垢とはまた違って花嫁に次ぐくらいに、華やかな出で立ちだ。基調は黒の、既婚者でもあり留袖なのだが、くっきりと派手な顔立ちも手伝ってこの座の女主人のように見える。
「ちっと、幹雄みきおん様子ば見て来んば」
「オ、オイも行く」
 と長男の真純ますみも立ち上がった。
「ついて来んで真純。うっとしかけん」
「そがんじゃなくてからさ。オイも、男同士の話なっとせんばて」
「そがんとの何の役に立つと」
 連れ立って出て行く続きの間には、両家の父親に、五人兄弟の末子になる幹雄が控えているはずだ。フサとは十以上も年が離れ、オトとは同い年。
「桂兄ちゃん」
 ツタが、わずかな合間ながらゆったりと、膝を詰めてくる。
「あんまし、そがん、気にせんでね。姉ちゃんは、昔っからみいくんがもう大好きやいけん、自分に話ばされんまま、桂兄ちゃんに、決まってしもうたとがただ歯痒かとよ。きっと」
「悪かけどツタ、なんちゃ慰めになりよらん」
 おっとりのんびりとした雰囲気で、良く聞けば芯を食う言い方をしてしまうから、自分も妹も、姉を余計に怒らせるのだと頭では分かっているのだが。
「ツタにはシエさんは、どがん人に見えよるな?」
「あたしには……、そがん、長う話せたことも無かし……、深うは付き合うとらん人やいけん、はっきり言い切れるごたる事は、なん無かごて思うとけど……」
 わずかに笑みを乗せた顔を上げて、言ってくる。
「どいだけ真剣にがんばらしても、やれ切らん人はおるて思う」
「はっきり言うたごたるもんやなかな」
 しかしながら芯を食ったごまかしの無い言い方の方が、かえって慰めを覚える事は有り得る。
「ありがとう」
「うん」
 とツタの方でも兄を慰め切れた事を把握している。

 大輪の花のような女だと、フサを指して語っていた者があった。フサには年が近い幼なじみで、名を三郎さぶろうといった。
「他所ん国から入って来た、ダリアとか、ちゅうりっぷの花びらのよぉ広がるもんとか」
 気障きざな言い方をするものだと、ザラ紙の束であっても写生を続ける彼の横で、桂壽は半ば呆れ気味に耳を傾けていたが。
「桂壽には、姉ちゃんじゃけんなぁ。ガキん頃からオイたちゃあ、フサには逆らい切れんかったもんの」
「逆らい切れんとは一緒じゃけんど、中身はたいて違うごたる」
 もう良い大人の、男が、身体を使わず良き働き手になろうとしない。暇を見つけては金にもならない落書きなどをして遊んでいると、親の世代からはひそひそ侮られていた。その隣で時折写生を眺める桂壽も同様だったはずだが、まだ子供で先は知れない者に思われていたのだろう。
 十二、三頃で、オトは六歳。毎日のように遊びに来る隣の子、といった思いしか無く、隣と言っても敷地の話で母屋同士からは見えないほど離れている。遊び相手もツタに幹雄で、自分はそばにいたとしても監督役だ。
 当時の学制では生きて行くために必要なだけの学業は終えたものとされ、これからおそらく一生を、村のため、家のために働き続けるのだと、人により程度に差はあっても腹をくくらなければならない年頃だった。幸か不幸か人手が足りている土地ではなく、同時に村の全員を満足に食わせ切れるだけの、余裕が見込める土地でもない。三百年も前に移住してきた、その子孫達の一族で、ほぼ全ての家が同じ名字を名乗っている。
 村全体が大きな一家のようなものだ。子が生まれ、働き手にまで育っていく毎に、厄介者が目に余り、徐々に気持ちから切り離されて行く。
「ただいま」
 母の「おかえり」を聞きながら桂壽は、家の暗がりの内に、姉を捜した。姉が一人でいるところでしか聞かせられず、母に居所を訊くわけにも行かない。
「三郎兄ちゃんに会うた」
 そう、と姉は繕い物から顔は上げずに呟いた。
「何か、話なっとした?」
「いつか」
 そういった話が、理解し切れないほどには桂壽も、子供ではなかった。
「姉ちゃんば描いてみたかごと、言いよらしたないどん」
 そう、と閉める途中の襖の向こうから聞こえてくる。
 二階に設けられた長男以外の子供四人の部屋から、南に開けた空き地を見下ろす度に、うちには男が多すぎる、と桂壽は感じていた。家長を継ぐだろう兄と、隣の空き地にせいぜいひと棟くらいしか、生涯に渡って支え合える余地が無い。
 出来の悪い息子であったなら、この年までに見切りを付けられ村の外に奉公に出されておかしくない。自分はまだ役立つか、幹雄がまだ幼くて父の見極めが付かないのだろう。

 全ての家で名字が同じ、なのだから、同じ年頃の内で重ならないよう、村では子が生まれる度に、両親と、村長むらおさに長老とが話し合った上で名を決める。
 三郎、というごく単純な名前からは、話し合いを経ていない、その家では望まれなかった子である事が、誰の胸にも冷静に、かつ残酷に伝わっていた。
 誰もはっきり言ってやりはしないけれど、長女の婿になどまず、望まれはしない。
「ヤケしゃん……!」
 村の男どもが集まる寄合の最中に、目立った発言をする者にも、そうした行動が許される者にも誰からも、思われてはいなかった。
「頼んます……! どうか……、どうかオイに、そのっ……、金ば……貸して下さい……!」
 オトの、父親でもある「ヤケしゃん」は、顔の左半分にむごたらしい火傷の痕がある事から、そう呼ばれていたのだが、村で唯一商売を、卵売りをしていて、手に入った現金を常にある程度蓄えていると語られていた。
 誰かしらが何か困り事や、要り用に迫られたなら、貸し出せるように。
「分かって、おるては思うばってん」
 焼けずに残った右の顔でヤケしゃんは、にこやかに笑いかけながら話をする。三郎はヤケしゃんの正面の畳に、額付いたまま、良く見れば細かく震え続けていた。
「うちん金は、ただオイだけのもんじゃなくしてから、こん村の、ぜんぶの家のもんじゃいけん、返す当てのはっきり見つけ切らんごたる話には」
 最後まで、言い終える間もなく三郎は、父親から襟首を掴まれた。
「ああちっと」
「恥っさらしじゃあこんガキャア!」
「待ってくれんね」
 怒鳴り散らされた文言を、そのまま書き留めるのは心苦しい。父親の心境も、かえって伝わらないだろう。一生蔵の中に閉じ込めて飯も粟しか食わさない、と大方の意味なら汲み取れるが、本当にやり抜く意志は無く、そもそも三郎の家に蔵など無い。
 絵の勉強がしたい、絵の学校に通いたいので金を貸して欲しい、などといった申し出は、村の内では夢物語よりもなお遠い、おとぎ話か狐にでも化かされた者に思える話で、冷笑されるのも父親が激昂するのも無理は無い、と分かっているはずの頭にどうも、大人しくはついて行けないところが桂壽にはあった。
 拳が振り上げられる度にヤケしゃんは、下ろされそうな辺りに手を出し、腕を伸ばして、笑顔を向けてそれを何回か繰り返してどうにか、場を落ち着かせていた。
「大丈夫じゃ。なん、心配は要らん」
 その文言を聞く度にヤケしゃんがそう言うのならと、皆命令でも受けたように大人しくなる。
「三郎」
 誰に対してもヤケしゃんは、相手の名前を呼びかけて話をした。気を遣うフリをして皆が呼ぼうとしない名であっても、気にしない様子で。
「温泉町で、ペンキば塗りよらす人の、色ば余らせるとももっちゃなかけんて、板絵んごたるもんば描きよらす」
 右の顔はにこやかでも正面に向き合って話す者からは、左側の火傷も目に入るはずだが、そうした時にヤケしゃんは顔を逸らそうとはしなかった。
「ペンキ塗りん方の手伝いじゃあるけども、人ば求めよるごたってそこにじゃったら話ばしてやれるないどん、三郎、行ってみるな」
「ばってん……、オイは、その……、そがんとば描きたかわけじゃなか……」
「三郎」
 ヤケしゃんに向けて上げた顔が目を見合わせた辺りで止まる。
「何もかもばいっぺんには、叶い切らんとぞ。今一番にやりたか事ば、やらんばこん先どがんもなり切らん事ば、考えれ」
 わずかな語尾の違いではあったが、命令はせず促すまでに留めている。
「遠か他所にあるごたるその、学校に行けたってん、お前の描きたかほどのもんは、その、きつか言い方ばするごたって、悪かけども」
 ヤケしゃん自身も口にする前に、噛んだ下唇を湿らせていた。
「こん村にしか無かろうや」
 その言い方は実際に、三郎の胸にはこの上無くきついものとして、轟いたらしかった。
 人前で、涙を見せる者は男でないように、村では戒められていたけれど、もはや村からは出て行くと今ここで決まったような者に、何の気兼ねがあるものか。村の誰もがこれまでに聞いた事も無いような声色で、三郎は泣き出した。
 大声だったとは言い難い。引き絞るような、実際に襟合わせを握り締め同時にもう一方の手では額を鷲掴むようにして、ただ悲しいばかりと言うよりは、これまでの、ありとあらゆる感情を寄せ固めて煮しめたような苦しさで、どうかしてしまったのではないかと怖れる者もあったようだが、ヤケしゃんはその正面で、にこやかな笑みを浮かべ続けている。
 泣き声が、徐々に弱まりすすり泣きも、やがて消え出した頃合いで、口にしていた。
「大丈夫じゃ。なん、心配は要らん」

「ウソじゃあがんとは」
 後にヤケしゃん本人からは、実にあっさりと否定されたが。
「心配なんぞ、ありまくりで口に出しながら、オイも腹ん内ではおとろしか。どの口が言いよるかて、ちっと笑けてくるに決まっとろうが」
 婚約が決まってからは、隣の家を訪ねる機会も増え、物置小屋兼ヤケしゃんの自室として使われている離れに呼ばれ、話をする事も多くなった。
「『大丈夫』なんぞオイに言わせれば、呪いの文句ぞ。本当のところは何も、何一つ、当てになるもんの見つけ切らん時にしか言うちゃやれん。たったそれ一つしか無かとじゃ。渡せるもんは」
 離れの外で見ている間よりも、二倍三倍以上に口が回る。元からの性質上桂壽はただ聞かされてばかりだったが。
「渡してそいで上手かごと、使いこなし切れるかは相手次第。おとろしかばってんか、そいも渡さんよりかは良かごてある」
 それは確かにその通りで、同じ文言を選び口にしたところで桂壽には、ヤケしゃんと、全く同じようには渡せないのだ。

「あがんも家ん内からは嫌われておって、村ん中にはそがんまでに、描きたかもん気に入ったもんのあったとじゃなぁ」
 と外側だけをただなぞった者達は意外そうに語り合っていたが、その数日前に姉の縁談が決まった事を、知っていた桂壽には。
 更に言えば、長女である事に自負を持ち、心根など素直に打ち明けるような姉ではない事を、心得ていた桂壽には、やはり余計な言葉に表情などはお互い見せ合うものではないと、思い知らされ生涯に渡る気質にまで育つに充分な出来事だった。
 フサが大輪の花だとすると、ツタは月見草やリンドウあたりで、オトはどうだろう、と考えを向けたところで行き詰まる。
 そもそも花の名前に種類になど、詳しくなかったせいでもあるが、これからおそらく一生を共にする事になるだろう女性を、盛りのある何かに例える感覚が、桂壽にはどうも馴染まない。
 続きの間の戸が開き、戻って来たフサは不満顔だ。
「おかえり」
 と口にした桂壽にとりあえず、聞こえにくい「ただいま」くらいは返しながら座り込む。
「ヤケしゃんの、外に連れ出さしたて」
 続いて戻って来た真純は、眼鏡の奥から微笑んでくれる。
「そいこそ男同士の話ばしてくれよらすごた」
 そうか、と桂壽は頷いて、妹と姉それぞれから異なる色合いの視線を受けた。
 雨が、降り出したらしく薄い板屋根に打ち付ける音がする。婚約が決まった夜も雨だった、と思い返していたので桂壽にはより印象が深い。
 真純に幹雄も揃った夕飯で最後に食べた豚肉や、今夜ヤケしゃんが来ると聞かされて背中の全面がうすら寒くなった感じ、そこからずっと気にかけていた弟の顔色に言動に、オトが履いてきた長靴、受け取って巻き納めてやった傘、両家の父が待つ離れへと向かう小道が濡れていて、突っ掛けがふた組置き並べられていた事、そういったものの集合が雨にはその後も染み付いている。
「涙雨やね。オトちゃんには」
 は、とつい呆れ尽くした溜め息が出て、姉からの視線も飛んできた。
 自分が叶わなかった分、妹やオトには心から望む者に添い遂げてもらいたい、という姉の心持ちは充分に察しているのだがさて、全く望まれていないほどの者でもないのだと、この姉に、自分の口から悟らせてやれる気がしない。


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