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『唱え奉る河内國春乃井学園御詠歌部』第6話

第1話(末尾に全16話分のリンクあり)
(文字数:約10600文字)


6 何事も 過ぎてしまえば 及ばない

 他の生徒がいなくなるといつも、御詠歌部がある日は教室を教壇近くの席まで移動する。横の列はズレても、縦は中央よりの列に一人ずつ。のど飴を買いに行った神南備はいつも教壇正面に座るけど、僕は何となくまだ決めていない。
 扉が開いて神南備かなって顔を上げたら、二年カラーの女子がいた。茶色い厚めボブの前髪を、大きめのクリップで、きちっと止めている。
「ここ、で良いのかな。ごめんなさい。御詠歌部、って言って、分かる?」
「ヒロエさん」
「え?」
 入って来た足を止めて顔を上げてきた。
「あ、違いました? 確か前もう一人、近くにいた人からそう呼ばれてたかなって……」
「ああ。はい。うん。そう」
 一拍ごとに笑ったりうつむいたり、うなずいたり、もう一回笑ったりしてくれる。
「ごめんなさい。いつ、呼ばれてたか私、覚えていないんだけど」
 一拍ごとに、区切るみたいなしゃべり方だなって気が付いた。
「そっか、新入部員の、え、聞こえてて、覚えててくれたんですね……」
「敬語いらないですよ。僕一年ですから」
「あっ。うん。分かった。ありがとう」
 何となくそうするかな、と思ってたけど、ヒロエさんは前から三つの、右から四つ、って自分の中で決めてあるみたいに座った。他の人も来そうだから僕は、近くに立ったまま。
 カバンの中から大きめの筆箱みたいな物を取り出して来る。分厚くて細かい刺繍が入っていて、机の隅にきちっと置いた時ふわっと香った。
「今日はもう一人の人は?」
「マガキさんは、その、やめちゃった」
 驚くほどにはまだ良く知らない人だったから、ああ、くらいの相づちしか出て来ない。道具入れみたいでヒロエさんは、中から鈍く光る鈴と、平たい灰皿を伏せたみたいな物を並べてきた。
「大会で、緊張し過ぎてレイを、鳴らしちゃいけない所で、鳴っちゃって、そこからもう、立て直せなくなって……」
「レイ、ってその、鈴ですか?」
「そう」
 輪袈裟を首に通してから、僕を見上げてくる。
レイと、ショウ
 身体をきちんとななめにずらして、その二つを僕に見せやすくしてくる。
「御詠歌ではこの二つを、鳴らす所と、鳴らしちゃいけない所が、きっちり決まっているの」
「鳴らす所、は分かりますけど鳴らしちゃいけないって……」
「鳴らす所、以外ではまず、鳴らしちゃいけないでしょ? あと、押さえ鉦って所もあって」
 鉦のそばにあった小さなハンマーみたいなものを、軽く持ち上げて、
「振りかぶるけど」
 鉦の上でピタッと止めた。
「鳴らす前で止める」
「やめちゃえばいいのに」
「え?」
「あ。ごめんなさい。つい聞いててうっとうしくなっちゃって、って言うか……」
 音を出す道具なのに、寸前で鳴らさないって正直意味が分からない。
「今、初めて見るからまだ何にも分からないんですけど、いるんですか? そんなルール本当に」
 僕を見た顔を、道具に移して、少し首を傾けてからちょっと、恥ずかしそうに笑ってくる。
「いるとかいらないとか、ちょっと、考えた事無かった……。だって、その、決まってるから」
「あのぅ、入ってもいいですかぁ」
 入り口の方から声がした。
「いいですよ。もちろん」
 お寺の息子って言われてた人だろう。三年で、髪はあるけど肌とかツルリとした感じで、入ってすぐ糸みたいに目を細めてくる。
「ああ。新入部員のぉ、うわぁ、有難いぃ。残っていてくれたんですねぇ」
 声が男の低さなんだけどやわらかい。あと語尾がちょっと残る感じがする。
「三年の、はやしと言いますぅ」
 頭を下げてきた時は久しぶりに分かりやすい名字だって、ちょっとホッとしたけど、
「申し訳ありません先日はぁ、きちんと御挨拶も出来なくてぇ」
 目を細めたままの顔を上げられて、ちょっと戸惑った。
「あの、敬語、いらないですよ?」
「いえいえ。そんなわけにはぁ。下級生、といっても一年、二年の違いですからぁ、お互いに、敬い合いましょうぅ」
 うんうんうんうん、って惰性が残っているみたいに、僕の目の前で細かくうなずき続けている。ちょっとまだ、良く分からない人だ。
「あの、林さん」
「はいぃ」
 振り返る、と言うより身体全体を、しっかりヒロエさんに向けている。
「さっき……」
 と話し出してヒロエさんは、恥ずかしそうに口を押さえた。
「ごめんなさい。名前……」
「張山です」
「ああハルヤマさん。風情のある良いお名前ですねぇ」
 って林さんが言ってきたから、
「声を張るとか、表面張力の張です」
 って返すと、林さんの目が開いてその瞬間だけちょっとピリッとした。
「あ。だけど、春の語源、みたいで、だから風情とかは多分、一緒ですけど」
「ああ。そ、そうですねぇ」
 何となく気付いてたけど、話し方通りの人じゃない。警戒、されている。
「それで、さっき初めてこの、楽器見たんですけど」
「あ。それは楽器ではないんですぅ。それもまた、仏と思って下さいぃ」
 ほとけ、の言い方が一音一音はっきりしている。そしてこの人も、『仏』なんだな。
「仏、になるんですか? 物も?」
「物、ではなく仏具と申し上げますぅ」
 ぶつぐ、も一音一音しっかりだ。
「まだお開きしていませんので、私の仏具でご説明致しましょうぅ」
 ってヒロエさんからななめ前、いつも神南備がいる列に座ったから、
「あ」
 って思わず出た口をつぐんだ。
「ああ失礼。張山さんのお席でしたぁ?」
「いいえ。大丈夫です。気に、しないで下さい」
 決まってたわけでもない。こっちの都合なんだからそこはもちろん、譲らないと。
 取り出された仏具は全体が、白くて分厚く編み込まれた糸に覆われている。
「全体をまとめるクミフサ、これはジャケンを封じ込めるものですぅ」
「ジャケン?」
 目が一瞬開いたけど、また細められた。
よこしまな見方と書きましてぇ、邪見ですぅ。間違った、ものの見方を意味しますぅ」
 クミフサを取り外し、細いヒモが付いたハンマーを鈴の金具にぶら下げる。
「シモクは振り下ろす度にぃ、招き寄せる形で仏に、お近付き頂くもの。シモクに結び付けられたヒモはぁ、仏との結び付きを表しますぅ」
 どう書くんだか分からないからとりあえず、ハンマーとは呼ばないように覚えておく。
「右手のシモクで鳴らす鉦、並びにぃ、左手で鳴らす鈴はぁ、音を鳴らす事で場を清め澄ませるもの。この四仏をまとめて四摂ししょう菩薩と申し上げますぅ」
「え? 五つあるじゃないですか」
 って口にして、ああシモクのヒモは数えないのか、と思っていたら、
「鉦と鈴はまとめて一つと考えますぅ」
 って来たから思わず口から出た。
「いやメインの二つがひとまとめって、それ何か、ずるくないですか?」
 林さんの目が開いて、あ、怒られた、と思ったけどまた、細められる。
「メイン、という考え方はございません。また大きさ、ではなく役割でお数えしますぅ」
「役割」
「先ほど申し上げましたぁ、封じ込め、招き入れ、結び付け、場を清める。これが、空間、を作り上げる基本となりますぅ。マンダラを思い出して頂ければすぐぅ……」
 マンダラ、というものがある事くらいは僕もどうにか知っていたけど。
「ごめんなさい。マンダラって僕まだしっかりと見た事が無いんです」
 目が開いて、すぐ細められた。
「そうですかぁ」
 に重なって、(マンダラも知らんのかいこのタワケ)って聞こえた気がした。
「さっきその、ヒロエさんから聞いたんですけど」
 林さんがちょっとヒロエさんを振り向いて、振り向かれたヒロエさんもちょっとだけビクッてなった。
「えっと、鳴らさなきゃ、とか、鳴らさないようにしなきゃ、とか、ルールがずいぶん厳しいなって、本当に、そんなにきっちり決まってなきゃならないものなんですか?」
 きっと多分、怒られるような質問に訊き方だとは思うけど、知らない事だし、ヒロエさんが答え切れなかった、と言うより僕が答え切れる訊き方をしていなかった気がする。
「もちろんですぅ。心を込めお唱えしている以上ぅ、間違いなど起こるはずがありません」
「じゃあ林さんもヒロエさんもいつも、完璧に?」
「いいえ」
 目が開いた。だけど今度は笑っている感じがする。
「大会では捨て鉦を一つ、落とさせて頂きましたぁ」
 言い訳や、ごまかしでは言っていない感じがする。
「あと鈴も一つ、わずかではありましたが加えさせて頂きましたかねぇ」
 しっかりと、一つ一つを思い返してうなずいて、また目を細める。
「つまり御詠歌において『間違い』とは、心を込めお唱えしないヽヽヽ事のみ。『出来ない』は習熟度や場の状況により異なりますぅ。仏が私の手を止めて下さった。もう一つ音をお求めになった。私は未熟であり完璧ではない、完璧になどはなれるはずがない、と、教えて下さった。そう考えればぁ、何もうろたえる事はありません」
 うんうんうんうん、と惰性みたいにうなずいている。
「ごめんなさい。きっと、どこか変な言い方に聞こえると思うんですけど」
「はいぃ?」
「林さんって、良い人ですね」
 何か言いたかったから口にしたけど、口にするとやっぱり変な言い方だなって目を逸らした。
「いや。正直ムカつくと思うんですよ。真剣にやっててしっかり勉強も続けてる人が、さっきみたいなワケの分かってない質問されたらそりゃ、だけど、ちゃんと、一つ一つきちんと答えてくれるんだなって、その、ありがとうございます」
 って目をやった林さんが、目を開けていたのは思った通りだったけど、ツルリとした頬を赤くして下唇も少し噛んで、なんか、かえって深く怒られている。
「ああみんな、揃っていたか!」
 入り口が開いて助かった、気になった。部長と続けて幸さんが入って来る。
「すまない。少し遅くなった。途中で神南備に出会ったもので」
 幸さんの後から神南備も続いて来たけど、ちょっと赤くなってうつむいている。どうしたんだろう、と思いながらちょうど見上げた時に、
「えっ、部長!?」
 林さんとヒロエさんの声が重なった。なるほど。部長がヅラを外している。
「ああ。その方が良いですよ部長」
「そのようだな。元御詠歌部の皆にもそう言われる」
 教壇にラジカセを置いて、黒板に向かう頭身も整っていて、黒板にチョークだってのに達筆だ。切り整えた黒髪だけが乗っていると、幸さんと双子なんだしそれは格好良い。男の僕でも美形だなって思うんだから、神南備とか、ってぼんやり思いながら振り返ると、教壇の右の列に座りかけていたところと目が合った。
 何よ、と唇だけで言ってくる目の端がちょっと赤い。僕も声を低める。
「何って。こっちのセリフだよ。何かあったの?」
「何にも、無かったわよね」
 って、神南備の隣に座った幸さんが微笑んできた。
「大丈夫よ。弓月くんは何も、心配しなくても」
 そう言われてもどこか心配だったから、神南備のななめ前、林さんから一つ飛んだ後ろの席に座ると、振り返って来た林さんにうんうんうなずかれた。
「マガキくんから退部届けを突き付けられると同時に、泣きながらの真剣な説教を受けた。御詠歌に対し無礼であり、ずっと愚弄されているようにしか、感じなかったと。悪い事をしたな。私としては、この上無く真摯に向き合っていたんだが」
 書き終えたチョークを置いて「さて」と振り返ってくる。
「現在の部員が全員揃ってくれた、という事で改めて、紹介しよう」
 黒板に全員分の名前が並んでいる。
「部長は僭越ながら二年生の私、小石川 晃。副部長は妹の、小石川 幸だ」
「姉よ」
 と幸さんが口にして、
「今もめるところじゃないだろう。幸」
 部長は微笑みながら返していた。
「部員は一時的に敬称を略させてもらう。三年の林 詠唱えいしょう
 名前の方にもう御詠歌をやっていくしかないみたいなクセがあった。
「二年の木地きじ 廣江ひろえ
 つい「えっ」と口にして廣江さんが振り向いてきた。
「ヒロエさん……、名前だったんですか……」
 ちょっと赤くなって「あ。うん。そう」と目を逸らしたりうなずいたり、また笑ったりしてくる。
「ごめんなさい、はっきり言わなくって……」
「何それ。普通そんな間違い方する?」
 神南備から聞こえてきて振り返る。
「僕には珍しい名字が多いんだよこの高校。足助とか」
「足助くんは珍しさ全国規模じゃない」
「神南備だって僕ここに来るまで聞いた事無い」
「そしてじゃれ合う様子が微笑ましい、一年の神南備みくりと、張山弓月」
 閉じた扇を差し向けられながら呼ばれると、無駄なスポットライトでも浴びせられたみたいで、妙に恥ずかしい。
「いや。じゃれ合ってないですって。あと部長の方がなつかれていますよね」
「張山くん、私が、紹介する番だ。自分の見方はちょっと後にしてくれないか」
 ぐっと詰まって座り直した時、ふっと廣江さんからの視線に気付いたけど、すぐ逸らされて様子とか分からなかった。
「正直に言おう。御詠歌部を立ち上げた当初、私は御詠歌について全く何にも知らなかった」
 え、と神南備から声がした。それはそうだろう。今まで専門家みたいに思って部長を質問攻めにしていたんだから。
「林くんと木地くんは、創部の時から赤子同然の私に様々な事を教えてくれた、ガチ勢だ」
 今まで何度もやめましょうって言ってきたのに。
「一年の二人にもぜひ敬意を払ってもらいたい」
「敬意の前にガチ勢をやめましょうって」
「ん? ガチでいられるほど尊い事が果たしてこの世にあるだろうか」
 あっさり返されてため息が出た。本気で誉め言葉みたいに思って使っていたのか。林さん廣江さんが、揃ってクスッと笑ってくる。
「部長はいっつもこんな感じなんですよぉ」
「聞いただけで怒って、やめちゃったような人も、多いんだけど」
「分からない。誇れないようなガチならやめてしまった方が良い。何事も、過ぎてしまえば及ばない」
「それ前半と後半が合ってない気がするんですけど」
「ん?」
 って返されて、あれ? と思った。ちょっと、今までの部長っぽくない。
「ガチが過ぎちゃっても誇れないじゃないですか」
 微笑んだままで今までより、ちょっと長めに間が空いた。
「話が、噛み合っているようで噛み合えていないな。ガチに『過ぎる』は存在しないだろう。ガチの場合は誇れない事こそ、及ばないんじゃないかと」
「いや間に『何事も』って入ってたから」
「ん?」
 やっぱりどこか調子が乱れた感じがする。もしかして、今までヅラがあったからスラスラしゃべれてたとか、でも、まさかね。
「そうか。後半にガチが含まれてしまう」
「と言うより普通『過ぎたるはなお及ばざるが如し』とか聞きません? 何でそれそのまま言わないんですか」
 これ以外に正解なんか無いみたいな笑顔で、
「『なお』と『如し』が面倒臭い」
 今日は僕にだって共感できる事を言ってくる。
「分かりますけどそんな堂々と言う事じゃないですよ多分」
「それと張山くん、私は『普通』には従わない」
「ええ。はい、知ってます充分に」
「すごいですねぇ張山さん」
「え?」
 いつの間にか林さん廣江さんから注目されていた。
「部長と会話が成立してる人、これまでに、初めて見た」
「ん?」
 まただ。微笑んだままだけど、ちょっと困った感じにうつむいている。
「これまで成立して、いなかったのかな?」
「はいお世辞にもぉ」
「言っている事はちょっと、よく分からないんだけど、悪い人じゃないなって事は、分かるから」
 自信を、無くしかけているみたいな。部長が?
「一応は、先輩ですからね。本当だったら僕も呆れてると思いますよ」
「ん? 年齢で変わるものかな。話の中身は同じだが」
「年齢、と言うより立場ですよね。ああ部長の問題じゃないですよ。聞く側が耳を作れないだけです。頭から、自分より下だって思い込んじゃうから」
 林さんが僕には背を向けて、廣江さんがチラッと林さんを見た。
「本当は同い年でも年下でも、聞く耳を作っといて良いはずなんですけど、タメ口で話して普通、みたいになってるから。だから敬語は大事なんだって、おばあちゃんが言ってました」
 林さんだけがクスッと笑う。
「相手を敬うためと言うより、言葉が頭に響き過ぎないようにするために。響き過ぎたらつい、すぐに反応、しちゃうから。間違っててもすぐ表に出ちゃうし、どうしようもない間違いだったら、取り返しがつかない」
「張山さんはおばあちゃんっ子なんですねぇ」
 語尾が残るやわらかい声、なのにどこかとがった感じがした。
「おばあちゃんっ子、って言うんですかね。命助けてもらうレベルで世話になっちゃったんで」
「張山くん、何か命に関わる事が?」
 ん? って返して来なくなったな、と思っていた間に、
「弓月くん、一年遅れなんです」
 って神南備が口にした。
「身体が弱くて療養してたから……」
 それでなんだか教室の空気は、爆弾でも落ちた後みたいに静かになって、一年遅れってそんなに衝撃的な事かなってちょっと、いじけそうになる。
「一年にはだいぶ知られてるけど、先輩達にはどうだっていいよそれ」
 神南備にはなるべく軽めに言っておいた。神南備が言い出しそうな流れにしちゃったのは、こっちだし。
「そうか。それで」
 ちょっとだけ、うつむいていた顔を上げると部長は、「ああ。おかえり」って口から出ちゃいそうな雰囲気に変わった。
「話を戻そう。いつもはCDに合わせお唱えしている、『いろは歌』を、今日は林くんと木地くん二人に実演して頂く。ガチとはどれほど敬われるべきものか、一年生二人の眼を開かせてくれると有難い」
「はい」
「承りましたぁ」
 失礼、と林さんが立ち上がり、部長は扇で招いてくる。
「張山くんと神南備は前へ。せっかくの機会だ。教壇の位置から見させてもらおう」
 立ち上がって教壇に近付くと神南備は、部長の左隣で立ち止まったから、僕が部長の背中を回って右隣に立つ。林さんは廣江さんと横の列を揃えて、僕の前に廣江さん、神南備の前に林さんがいる。
稽首けいしゅ礼拝らいはい
 合掌した手を頭を下げた時だけ開く、僕は初めて見るお辞儀をした。
「とぉなえたてまつるいろはうたのぉ、ごえいかにぃ~」
 林さんの発句がCDよりも少し高いのは、廣江さんに合わせるためだな、と思ってすぐ、

   ガッ

 と思っていたより重くて鈍い音が響いた。
 シモクに結び付いたヒモを、引き寄せ、持ち上げ、振り上げて、落とす。

   ガッ

 また引き寄せ、持ち上げ、振り上げて、落とす。

   ガッ

 仏を招き寄せる、みたいな言い方をしていたけど、これは、つまり四分の四みたいな拍子を刻んでいる。メトロノーム、と思ってギョッとした。それを、人の手で加減して?
 いや指揮者もか、って思いかけたけど、だから、それを一人一人が合わせてるんだって、

   チリーン

 って鳴る度にギクッとする。澄み切った音色、と言うよりは、

   この音色が澄み切って聞こえないようであれば
   その頭には余計なものが様々に詰まっている、

 って叱られて、ちょっとムリヤリみたいに追い払われる感じだ。
 ガッ、も、チリーン、も二人分の音色が、きっちり合わさって鳴るから言い訳が効かない。だから、集団になればなるほど、間違い無く揃え切れた分は、威力が増す。
 歌が終わって最後の鉦を、廣江さんは振り上げて、落としたヒモを掴み取り鳴る寸前で止めた。最後のガッ、は一人分だ。
 二人並んでまたさっきのお辞儀をして、ゆっくりと顔を上げてくる。
「本来ならこの歌は少なくとも二回繰り返す」
「え。そうなんですか」
 部活の始めに唱える時は、CDに合わせて一回だった。
「しかし今のはあくまでも、『実演』だ。仏に向かいお唱えする場でない以上、一回が適切と判断した。そういう理解で間違いは無いかな? 木地くん」
「はい」
「廣江さん。『押さえ鉦』って、今みたいな時に使うんですね」
 話しかけると少し赤くなって
「え。ううん。あ。ちがうの」
 ってうつむいたり、林さんをチラッと見たりしていたから、
「あ。ごめんなさい。僕また名前……」
 そう言ったら顔を上げて微笑んでくれる。
「ううん。それはもう、いいの。私も、呼ばせちゃったから。あのね」
 ちょっと黙ってうつむいて、息を吸い直してから答えてくる。
「林さんにも一回で、止まってもらおうと思って、使ってみただけ。本当の、使い方じゃないんだけど、この歌、押さえ鉦使う所無いから、だけど、さっき押さえ鉦の話しちゃったし、見せたいなって」
「私も見られて有難い。かなり難易度が上がらないと出て来ない音だ」
 音、に入るんだこれも、鳴らさないのに、って気になったけど、もっと詳しく訊けたとしても、今は理解できないと思ってやめた。
「なんでいるのか、まではごめんなさい。よく分からないんだけど、使えるようになっておいて、悪くはないと思うの」
 訊いた時からずっと、どう答えようか考えてくれてたんだなって、
「ありがとうございます」
 って言ってからまた元いた席に戻った。林さんが一つ横の列に移ったから、今僕の前には、部長しかいない。
「どちらか感想か、何か言えるかな?」
「ちゃんと部室をもらった方がいいです」
 ななめからの横顔だけ見えている木地さんは、微笑んでくれたけど、林さんは目が開いているから補足しなきゃ。
「僕と神南備がいるだけじゃ、怖くて同じクラスの僕の友達も、教室入れないですよこれ。いや。僕は怖くないですけど今は。知ってるから。だけど、何も知らずにいきなり見たら、別世界だ」
「そうですねぇ。同世代にはあまり、理解を得られないと言いますかぁ」
「いや理解の問題じゃないです。林さん達は知り過ぎてて、そりゃ全く知らない感覚にはなれないし、全く知らないと、もう何から手を付けていいかも分からない。世界が違うんですよ」
 理解を求めたって無理だって、どうにか分かってもらいたいけど、上手く説明できない。林さんの目は開いたままだ。
「なんか物凄く、素晴らしい、とかそのくらいじゃ薄っぺらく感じて言いたくないみたいな、良いものだって事は伝わりましたけど、それってわざわざ僕が言わなくても、自分達で分かっちゃっていますよね?」
「分かっていても誉め言葉は誰かの口から聞きたいものだよ」
 部長がそう言ってくるのも分かるけど、これ以上何を言えそうな気もしない。
「すみません。良い感想は僕は、あんまり……、上手くしゃべれないって言うか、はっきり伝わるような分かりやすい事言えないし」
「今までは壮大な前フリかな?」
「え?」
 言われて気が付いたら木地さんからも林さんからも、後ろを振り向いたら神南備からも幸さんからも、それぞれ表情は違っても、何か言いたそうな視線に取り囲まれていた。
「今ここにいる全員の頭に、全く同じツッコミが浮かんだと思うんだが、一斉にお唱えして構わないだろうか」
「嫌ですよ。何ですかそれすっごく怖い」
「そうだな。やめておこう。笑いが起きてくれる気がしない」
 閉じた扇子を今までみたいにポーズを付ける感じじゃなくて、額の辺りにちょっと目元を隠すみたいに掲げている。
「張山くんはまだ病弱だった頃の、感覚でいるんだろう。しかし今は健康どころか、順風満帆に生きて来たように、見えてしまう」
 病弱、と、身体が弱い、はちょっと違う気がしたけど黙っていた。
「もっと自信を持って頂かないとぉ。病気がちでもねぇ、御家族には恵まれて、お友達も多かったんでしょうぅ?」
 林さんの声がとがって聞こえたからつい、
「いいえ? 湿疹とアレルギーがとんでもなくて、誰も近寄ってなんかくれませんでしたよ?」
 黙っていたところが口に出た。
 息が出来なくて、免疫も何もあったもんじゃなくて、内臓なんか内側からボロボロで、食べられない物も多いし食べ切れたって栄養とか吸収できない、ってのをしかも、全部自分が悪いんだって諦めていた。
「給食にゴミとか混ぜられたり、ゴミ置き場に投げ込まれたりとか、もうしょっちゅう……」
 せめて笑いながら言ってみたけど、本日二度目の爆発後、みたいな空気になって、林さんがしっかり身体の向きから僕を見て、
「ごめん」
 と敬語も無いし語尾も残らない固い声でそれだけ言って、また身体ごと前を向いた。
「同じクラスだからちょっとずつ慣れてきたけど、まだ先輩達に聞かせる話じゃないよ」
 神南備がさっきの仕返しみたいに言ってくる。
「思い出話とか本当にそんなのしか無いから、加減が分からないんだ」
「うん。やはり『何事も』、は必要だと思う」
 部長はこれ以外に正解は無いみたいな笑顔で言ってくる。
「何事も、過ぎてしまえば及ばない」
 だけど、微笑んだままうつむいて、今日はやっぱり調子が乱れてるな、って思いかけたけど、
「張り詰め過ぎているんだ。そう簡単にはいかないが、少し緩めた方が良い」
 さっきのひと言だけの林さんみたいに、もしかしたらこれが部長の地なのかもしれない。
「緩み切った感覚を味わっていない。だから、緩めたつもりでもまだまだだ」

 教室を出る前に幸さんが近寄って来た。
「張山くん、今日も、お願いできる?」
「はい。もちろん」
 中にいるみんなに挨拶して、廊下に出て、高校の敷地も出た辺りで幸さんが、振り返ってきた。
「悪い人ね」
「え?」
 振り返る、ついでみたいに笑ってくる。
「廣江さん困らせて」
「いやあれは……!」
 まだ言われるんだ。今日一番の大失敗みたいに僕は思っているのに。
「マガキさん、って人の怒ってる声が、耳に残っちゃってたから……」
「そこは言わないであげて。ううん。言わないでいてくれて、ありがとう」
 にっこり笑って背を向けた幸さんに続いて歩く。
「私も、ついお節介焼いちゃった。お節介、になってくれたか分からない。かえって誤解させちゃったかもだけど」
 今日は他にも色々と、失敗した気がするから、気付いていないだけで失敗が重なって、とんでもない大失敗やらかしていたのかもしれない。
「あーぁ、今って結構居心地良かったのになぁ。この先ギクシャクし過ぎたら、張山くんのせいだからね」
 言い方はそんな感じなのに幸さんは、どこか楽しそうだ。
「何でか僕全く分からずにいるんですけど」

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