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ダブルスタンダードの起源を紫式部に見る

 はじめましての人も、
 前から知ってる人も、
 ごきげんよう。

 偏光です。

 与太論説ですが、
 付いて来られる方はお付き合い下さい。

(文字数:約1800文字)



パブリックかプライベートか

  皆さん一人一人それぞれに、
  胸に手を当てて心静かに、
  思い返してもらいたいんだが、

  『源氏物語』とその筆者、
  紫式部に対して、

  公的な場では、
  憧れでもあるかのように、
  敬意を込めて褒めそやしつつも、

  友達同士のくだけた場では、
  「あんなの大した事ないよね」
  「常識とか違い過ぎて意味分かんない」
  程度に鼻で笑って済ませていないか。

  だから自分一人だけでじっくりと、
  自らの言動を振り返ってみてくれ!

  「紫式部って生活悪っ」
  とか苦笑したり、
  その根拠を『紫式部日記』中の、
  清少納言に対する悪口部分に、
  求めたりはしていないか!

  心当たりがあった方には是非とも、
  あと一歩考えを進めてもらいたいんだが、

  作品の真価を問うに当たって、
  筆者の人となりといったものを、
  考慮に入れる必要はあるか?

  無い!
  と私は言い切りたい!

  誰が何と言おうとも!
  如何なる学者が研究論文等で、
  まことしやかな説を展開しようとも!


男性か女性か

  私が触れてきた限り、
  そうしたまとめ方をした文献は、
  無かったように思うんだが
  (もしかしてあったらごめんなさい)、

  私は『源氏物語』を、
  「藤原道長をスポンサーにした、
   一条天皇に対する、
   中宮彰子のプロデュース小説だった」
  と認識している。

  皇子達の人数に先行きまでも決定付ける、
  つまりは国家的プロジェクトであり、

  もちろん紙は高価で貴重。
  男性しか入れないような儀式典礼に関しては、
  情報をくれる人がいたであろう。
  つまりはチーム紫式部だ。

  現代でこそ、
  絶世の貴女とされつつも、
  詳細不明でミステリアスな藤壺の宮に、
  人気と関心が集まっているが、

  当時の感覚では、
  中宮彰子の言わばライバルである、
  中宮定子をイメージしたらしき人物について、
  詳しくは記されない事など明らかだったろう。

  ……みたいな事を書き記すとしかし、
  「男性こそが文化的に優れていると思い込み、
   女性の潜在的能力を軽んじている」とか、
  「紫式部という一人の女性の偉業を、
   そんな世俗争いに結びつけるのか」とか、
  妙なジェンダーバイアスが掛かって議論を狭める。

  男女も時代も国家も関係なく、
  歴史に名を残すような作品は、

  もちろんその時代の人々の、
  価値観や通念に思いっきりで乗っかって、
  共感されまくったものに決まってるだろ。

  当然に当時の人々の、
  意向や好みが反映されているんだ。
  筆者一人の能力で書き上げられるかのように、
  思っている方が私は不敬に感じる。

  紫式部本人が、
  本気で筆の進むままに書き出せ切れたのは、
  宇治十帖か光源氏存命中であれば、
  女三の宮降嫁あたりからじゃないだろうか。


貴族かド庶民か

  平安時代も現代も、
  人の心は変わらないね♪

  ……みたいなまとめ方もよく聞くが、
  いやいやいや。
  大前提をようっく思い出して欲しい。

  『源氏物語』の登場人物たちは皆、
  貴族だ。

  貴族の中でも最高峰だ。

  より厳密な言い方をすると、
  当時はソイツらくらいしか、
  まともに物事を考え得る、
  ヒトであるとは思われていない!

  あとごめん、はっきり言わせてもらう。
  有り難く美しく雅やかに思っているのは、
  現代においても京都及び、
  世界各国の都市圏に住む、
  社会的に高い地位にいる方々だけだ。

  庶民においてはただいけすかん。

  学校の図書室でそんなもん、
  読んでる奴とか見つけたら、
  先生たちからは好まれたとしても、
  学生の間では鼻で笑われるし嫌われる。

  そいつがド庶民の現実だ!
  (そして私は実際に嫌われた側!)

  そしてド庶民側も同時に同等に、
  我が国の国民であり、
  人間である。

  平安時代と現代とでは、
  ヒトだと認識される範囲が、
  思いっきりで広がったんだ。

  文字に文章表現を可能とする環境も、
  裾野にまで普及してくれた。

  私が有り難く受け止めるのはそうした所だ。

以上です。
ここまでを読んで下さり有難うございます。

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