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『太平記』読書記録3分の3の下

3分の3の・下


どんどんカオスになっていく
  
尊氏の死後は私も読む気を失って来たけど、
  筆者も追いかける気を失って来たんじゃないだろうか。
  何か歴史引用が増えてやっつけ感が強くなる。

ところで九州は南朝方なんだ
  
畠山直顕だけが足利方で日向の衣笠城にこもってる。
  細川繁氏が援軍に来たけど急に発病して亡くなった。
  崇徳院の祟りって言われてる。

  菊池武光は日向を攻めてたら、
  大友家や小弍家に裏切られた。
  後醍醐天皇の王子、懐良親王を大将にして、
  戦いまくったけど討たれる。

あれ? 東国の新田兄弟は?
  
関東の武士達に担ぎ出されて新田義興(義貞の次男)、
  足利基氏が治める鎌倉を攻めようとするが、
  関東管領畠山国清から送られたスパイに騙される。
  (とは言えスパイ3人もいて半年がかりだから周到。)
  (贈られた美女少将の局のエピソードが泣ける。
   新田は義貞の代から女色に弱いって言われてるけど、
   ⚠️史実じゃないからね⚠️)

  鎌倉攻めに向かう途中の矢口渡で襲われ船上で自害。

  後に畠山の屋敷に雷落ちて燃えたり、
  矢口渡で波が荒れて船沈んだり、
  逃げ帰った人達も血を吐いて叫び死んだり、
  義興の怨霊と噂される。

足利義詮は29歳で征夷大将軍に
  
足利基氏の許可を得て、
  畠山国清上洛。
  和田と楠を攻めて義詮に忠誠を誓おうって、
  東国勢20万騎連れて来た。

  装いめっちゃ華美で京の人達も見物。

  河内の天野を皇居にした後村上天皇は、
  楠正儀に相談。
  楠「敵は数多いけど孟子が唱えた軍謀三つ(頻出)、
    天の時、地の利、人の和、全部備えてないから
    多分勝てないよ。野戦で徐々に力削いで行こう」

  ※実は河内の石川が源氏発祥の地だとか。マジか。


そんな感じで合戦合戦また合戦
  
足利軍、八幡とか尼崎に陣取るんだけど、
  南朝軍全然やって来ないからどんどん進軍して、
  天王寺・阿倍野・住吉辺りに来ても城にこもられるし、
  ずんずん進んで山に入って、
  谷底通ってる時とかを狙って射られる。
  めっちゃきらびやかな太刀とかも捨てて敗走。

  仁木義長、足利軍のくせに大爆笑してヒンシュク買う。

  そんな感じで色んな人が色んな場所で細かく戦う上に、
  いきなり漢のエピソードとかも入って今それええねん💢

  結果南朝の城全滅、和田も楠も金剛山に逃げた。
  後村上天皇に側近達はうろたえまくりだけど、
  足利義詮が「勝負ついたしもういいじゃん」
  って京に帰ったので足利軍皆散り散り。
  (しかし楠は初めからこうなる見込みでいた様子だ。
   そもそも畠山が言い出した事だし、
   足利家は別に乗り気じゃないし。)

  ※息する度に口から炎吐く後醍醐天皇が、
   畠山・細川軍退治の相談してる夢見た人がいる。


  
そんで仲間は割れるし
  
畠山・細川・土岐・佐々木で、
  ヒンシュク買った仁木義長を今のうちに討たない?
  って話になって、
  みんなで天王寺に陣を取る。

  義詮はそんなん聞いてなかったので(親父に似てるな)、
  きっと自分への謀反だと考えて仁木義長に味方して、
  天王寺勢の追罰令も出しちゃう。

  なんだけど仁木から閉じ込められた義詮、
  佐々木道誉に助け出されて、
  そしたら仁木に味方する人いなくなっちゃって、

  仁木義長、南朝に降る。

  ※なんか北野天満宮にこもった僧頼意が、
   遁世者と雲客と法師の立ち話を聞くエピソードが。
   周の話、唐の話、北条時頼、青砥左衛門、
   釈迦の弟子梨軍支とかあってめっちゃめちゃ長い

  ※京兆職……右京大夫、左京大夫、権大夫右左の4人のみ。


そんな事より疫病流行
  
京で五条天神に従二位を授けたり、
  (なんか天神を流罪にもしたりするらしいね。)
  延文から康安に改元したりしてるけど、
  3月に改元したその夜に四条で火災起きるし。

  6月には大地震と余震頻発。
  阿波の由紀港で山のような潮漲(うしおみなぎり)。
  夏なのに雪が降って木こりや旅人凍死。
  7月には難波でも潮漲。
  阿波の鳴門には竜が絡み付いた巨大太鼓現れる。
  天王寺でも竜が二体出て金堂壊れる。
  あと熊野参詣道裂ける。

  南朝は祈祷しまくる。
  内裏でも大熾盛光法と尊星王法と、
  久しぶりに最勝講(天下太平祈願)をやったって。

  大和国の円海上人が金堂再建を発願したら、
  なんか知らんけど木材に大工集まったってよ。

  ※天龍八部……天、竜、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、
        緊那羅、摩喉羅伽


もうあちこちで色々だよ
  
美作では山名家と赤松家戦ってる。
  九州では新田家と松浦軍戦ってる。
  摂津でも和田・楠と佐々木家戦ってる。
  楠正儀ここでも敵兵助ける。兄貴に似たほっこり。

  京では細川清氏と佐々木道誉が、
  お互いの領地に足利義詮の支持奪い合って、
  どんどん仲悪くなっていく。

  佐々木道誉どんどん讒言続けて、
  「清氏が義詮を呪ってる」って義詮に信じ込ませる。

  道誉が有馬に湯治している間、
  清氏が天龍寺に兵を集めたので、
  自分を討つ気だって義詮大慌て。

  とことん嫌われた細川清氏、若狭に逃げる。
  だけども若狭の家臣にも裏切られて、
  かつての友人、石堂頼房を頼って南朝に降る。
  わりと本当に友達だったみたいで、
  涙しつつ再会を祝してる。

  そんな中、畠山国清が鎌倉を追い出されて、
  京の足利義詮を攻めに来るぞ。
  (もうだからぐっちゃんぐっちゃんで。)


細川清氏が味方についたけど京取り返せると思う?
  後村上天皇に相談されて楠正儀、
  「無理だと思うよ」ってあっさり。

  楠「取ってもまた取られるよ。命令なら従うけど」
  天皇「でも京に戻りたい。やってみる」

  そんで細川清氏は足利軍の手の内知ってるから、
  そりゃ易々と攻め切れるよね。
  義詮は後光厳天皇と近江に逃げた。
  義詮の館焼かれる。

  佐々木道誉は館を飾り立てて、
  歓迎する人も用意して出て行った。
  そこに入った楠は感心して逆に太刀と鎧置いて出た。
  この行動を笑う人も世にはいたそうだが。

  で、細川清氏が京に入ったのに、
  どの武家も来ない。

  結局阿波に帰っちゃって南朝軍も住吉に引き上げて、
  また足利義詮が後光厳天皇と京に戻る。

  細川清氏が勤めてた執事職を次は誰にするかって、
  一旦足利高経(直冬が負けたのでしれっと義詮についた)
  の息子、斯波氏頼(だけど姓は変えた)が推されたけど、
  高経は後妻の子義将の方が好きだからって、
  義将を執事にして自分が後見に付いちゃって、

  斯波氏頼、形だけじゃないガチ出家。


「今は末法澆季の世。国また卑賤也」
 とか言っときゃ良いみたく思ってないか?
  
正直誰がどっち側とかどうだって良くなって来たので、
  結果だけまとめてサクサク行きます。

  ・彗星現れた。
  ・地震や干ばつひどい。
  ・足利高経の次男、斯波氏経は九州探題になったけど、
   ガッツリ負けて出家。
  ・畠山国清と弟は南朝に降ろうとしたけど許されず、
   京にも戻れず路上で死んだ。
  ・細川清氏は四国で討死。戦い振りはすごかったけど、
   自ら出陣して付いて来られる味方がそばにいない。
  ・和田と楠は佐々木道誉相手にわりと面白い戦したけど、
   京から出て来た足利高経軍に散らされる。

  南朝側の蜂起も大体静まったよねって、
  康安2年9月23日、貞治に改元。

  ・山名時氏と師氏親子は足利義詮方に。
   元々の所領に加えて丹波・丹後・美作ももらえた。
  ・仁木義長も足利義詮方に。
   京に戻ったけど友達とか誰も来ない。

  上杉憲顕は足利基氏の乳母子だったからって、
  基氏、鎌倉に呼び戻した上に越後与えて、
  元々越後持ってた芳賀家と数ヶ月の大激戦。
  結果芳賀家が負けて宇都宮へ。

  管領後見の足利高経は興福寺の所領奪っちゃって、
  怒った興福寺から春日大社の御神木を、
  高経邸に放り込まれる(その後、邸全焼)。
  後光厳天皇は粗略に扱えないから祀るけど、
  都に祟りみたいな怪奇現象続くまま3年放置。

  ※斯波義将時代に「なんか特別感欲しい」とか言い出して、
  執事から管領に役職名が変わった。
  これで斯波・細川・畠山の三家しか、
  勤め切れない感じになったって。ふーん。

  佐々木道誉と足利高経が権勢競い合ってもめて、
  高経側に討罰令が下って、
  城にこもってる間に病死。
  嫡男の斯波義将は桃井直常退治して越中守護になった。

  「世上の毀誉は善悪にあらず。
   人間の用捨は貧福にあるとは、
   今の時をや申すべき」
  って地の文まとめてるけど、うるせぇな。
  
(もちろん地の文も批判調だが。)


ふざけんなよおら俺の生まれ国💢
  
国内が荒れ続けた上にろくな政治やる奴いないから、
  和寇出まくってます。

  
元からの勅宣受けた、
  高麗国王の使者が17人も来て、

  「ちょっとあんたのとこどうなってんの?
   まさか正規の軍勢と違うよね?
   きっちり国内治めてやホンマに」
  ってもちろん丁重な漢文だけども、
  そんな気持ちが滲み出そうな訴え文を進奏してんのに、

  「四国と九州の海賊がやってる事だから、
   帝都から厳刑加えるによんどころ無し」って、
   (「もちろん厳刑に処しますよ」って聞こえるが、
    「そんな下賤の者に関わる気無いよ」って言ってる)
   ろくな返事もせず来朝のお礼だけ色々贈った。
   扇子300本とか。いらんわ💢

  それを非難するならまだしも地の文すら、
  元寇とか持ち出すし。
  その時の神風とか讃えるし。はいはい。

  それどころか神功皇后の新羅攻めの話持ち出すし、
  潮干珠に潮満珠使った戦いの模様はともかくとして、

  「高麗の王は我が日本の犬也
  って高麗国の都の石壁に書いて帰国したって、
  世間に歴史家、人文学者がどう解釈しようが、
  私にとっては恥だ!
  
(⚠️おまけにこのエピソード、
   『古事記』『日本書紀』には無いですからね⚠️注意)

  ※催馬楽曲名……梅枝、桜人、石河、葦垣、此殿、夏引、
         貫河、飛鳥井、眞金吹、差櫛、浅水の橋


もう少しだけお付き合い下さい
  
出家した光厳院法皇が、
  お伴の僧一人だけを連れて、
  本当に山林行脚に出たエピソードは好きだ。

  難波に住吉、堺を巡って、
  働いている人々に、
  「営みってこんなに大変だったんだ……」
  って涙して、

  金剛山から紀ノ川を経て、高野山に入って、
  平清盛が描いた両界曼陀羅に、
  「これだけのものが描ける人は、
   ただただ悪人じゃなかったんだろうな」
  って感じ入って、

  奥の院を参ってから大和へ、
  吉野に入って後村上天皇に会う。

  言ってしまえば国家も巻き込んだ、と言うより、
  光厳院側は巻き込まれた政敵の息子なんだけど、
  お互いにお互いの立場を思いやってほろほろ泣く。

  光厳院法皇なんか目の前で数百人の切腹見てるし。
  死体の中にしばらく取り残されたし(番場の戦)。

  馬を勧められたけど固く辞退して、
  徒歩で賀名生へ。
  移された時は辛かったけど、
  今の心持ちならこういう所に住みたいなぁって、

  一旦伏見に帰ったけど人が訪れるわずらわしさから、
  丹波の常態寺に移って翌年崩御。

  光明院と梶井宮が葬礼。
  勅が遺されていてなるべく質素に行ったって。


最後くらいはほっこりいきましょうか 
  
清涼殿で30年ぶりくらいに(南朝はやってたぽいけど)、
  中殿御会(和歌と管弦の御遊)やりたいなって、
  後光厳天皇が仰った。

  二条良基が関白になったし、
  足利義詮も和歌好きだし。

  まだ自重しとこうよって声もあったけど、
  「治まれる世の音(こえ)は安くして楽しむ。
   乱れたる世の音は恨みて怒る」
  つまり政の正邪と王道の興廃を知るためだよって、
  要はやりたい。

  お題は「花は多春の友」で、

  関白  つかえつつ 齢を老ぬ行末の
          千年を花になおや契らん

  御製  さき匂ふ 雲居の花の本つ枝に
          百代の春をなおや契らん


  その年も天龍寺が燃えたり、
  南禅寺と三井寺が争ったり(結構えぐい)、
  足利基氏が28歳で病死したり、
  足利義詮が38歳で病死したり、
  色々あったけど、

  足利義満10歳の補佐として、
  細川頼之が管領に就いてからは、
  太平の世になりました、

  ってさ。


  

  


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