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人の可能性は、自分の中の多様性を素直に発揮することで一層大きくなる。

冒頭、いきなりお便り紹介で名前を呼ばれてニマニマしながら聴いていた今回のPodcast。

後半の武邑氏との「間」と「和」の話の中で「複数のキャラクターを持つ」ということの意味というのか、良さ?のお話が興味深かったです。
武邑光裕(CIT変革センター研究員)

花柳徳一裕(日本舞踊家)

伊藤穰一(CIT変革センター所長)

日本人には古来より<間>という微妙な意識が存在しています。
名人といわれる落語家の語り口は「間」のうまさが絶妙で、剣道では間のとり方が勝敗を決する。
日常的にもぼんやりして「間が抜ける」と、約束に「間に合わず」、「間の悪い」思いをする、といったように、間ということばの用法は日本語で多用されています。

そして現代。GPT-4の登場で、人間の立ち位置、距離感、行動などが再考される時代に突入しました。今こそ「間」の美学が問われています。

日本舞踊という「空間意識の間」と、「時間意識の間」を複合的に表す鍛錬された身体表現言語を題材に、日本の「間」をあらためて見直してみませんか。

日本の伝統文化における<間>と<和>より

今回、一人の人間が複数のキャラクターを持つことの大切さを話されています。

私は「変革コミュニティ」に参加してから、メタバース空間でキャラクターとして「複数の人格」で、「複数の空間に存在する」ことの可能性と難しさを考えるようになりました。

私自身は、外出が不自由な中で、このコミュニティに参加するようになり、自分の中の「ほんの一面」しか表現することが無かった生活から、違う自分を明るく表現できる空間が、生きる上でとても大切というか、必要不可欠なものであることを実感しています。

しかし、あまりにも価値観や個人がイメージする世界観が違いすぎると難しい問題も起きるかもしれない。(現実、起きている)



そして、江戸時代の「連・座」の例から、習い事を複数持つことなどで、自分のキャラクターも複数となり、好きで始めたことが社会の役に立つまでに精進することもあるというお話。

昔の日本の方が多様だったのかな。
「江戸時代の解説本」などを読んだりすると、江戸の町には、それぞれが自分に出来る仕事をして、お互い助け合っているように思います。時代劇に描かれているよりもっと多様で、それぞれの能力の違いを認め合っている。違いをごく自然に受け入れている社会。

また身分に縛られた「武家の者」は、その身分から少しの間自由になるために、習い事などで、違うキャラクターを持つようにしていたのかとも思います。

人の可能性は、自分の中の多様性を素直に発揮することで一層大きくなるのだと実感しています。

今私は「複数のキャラクターを持つ」ということが、いかに健全に過ごせるかということの指標になると思い始めました。


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