私たち夫婦そろって実家は「真言宗」です。幼いころ祖母が毎日のように「般若心経」を仏様にあげていました。
大人になって仏教や空海の本を読んだとき、「真言宗」が釈迦中心の仏教ではなくて、「大日如来の教え」ということをなんとなく知るのですが・・。
日本文化の中に、今の変化の激しい複雑な世界に向けて「日本から発信できるものがあるのでは」と考えている人が最近増えていると感じてきました。
そして私も幼いころから親しみのある「お大師さん」空海のことをもう一度詳しく知りたくなりました。
空海生誕の地、香川県で以前空海や仏教にかかわる大きな展覧会が開催されたのですが、そのとき最澄と空海の直筆の書が並べて展示されていたのを覚えています。
「やっぱり空海の方が達筆だな」と思った記憶が。(笑)
この本は梅原猛氏が最澄と空海について語っています。
この二人の違いを話されていて興味深いです。
そして今空海の話を読んでいて次のような文章がありました。
「大日如来というのは自然の仏」
密教を学ぶため遣唐使の一員として唐に渡り、日本に帰られて後開かれた教えが真言密教・真言宗です。
密教の教えの中に、今の時代に必要なヒントのようなものがあるのでしょうか。
密教はブッダの教えから始まった仏教が、歴史の流れの中で変化していき、その最終段階で、「大日如来」という「自然中心」の考え方になっていったという見方も出来るそうです。
過去に「西洋哲学の解説本」などを読んでも、人間の「意識の捉え方」というのが、日本人の私にはどうも理解しがたい、「腑に落ちない感覚」がありました。
次の引用は、西洋哲学と日本哲学を比べた本の中から。
この万葉の人々の意識についての表現。
日本人の意識は「なにものかと共にある意識」であり、西洋哲学は「なにものかについての意識」であるという、この意識に関する違いこそが、私が西洋哲学の解説を読んだ時の「意識」についての違和感なのだと納得したような気がします。
仏教の最終段階として「大日如来」という自然中心の神を信仰の中心とした真言密教。
それが広く受け入れられた当時の日本には、そもそも「自然」という
「なにものかと共にある」という意識があったからなのでしょうか。
仏教も哲学なの?
宗教と哲学の違いって何?
最後に「今の時代の修行」の提案をChatGPTに尋ねてみました。
これなら私にも出来ますね。