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#7日間ブックカバーチャレンジ【3日目】ポール・ド・マン『美学イデオロギー』(上野成利訳/平凡社ライブラリー 2013)

※2020年5月12日Facebookポストしたものの転載です。経緯は一昨日ポストご参考ください。
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【3日目】ポール・ド・マン『美学イデオロギー』(上野成利訳/平凡社ライブラリー 2013)

なんかやはりあれですわ。この「7日間チャレンジ」私の不完全燃焼このうえない。自ら「内容はガチ紹介します!」とハードルあげておきながら連日やるとなるとキツくて鼻血吹き出すわ。今はまだ在宅で書庫部屋業務中だからなんとか掘り返したりできるが、もう少しコンパクトにまとめないとヤバい。当たり前ながら、事前草稿なんかあるわけなく、当日一気呵成に書き上げている(から検証・校閲もできないので史実間違いとかありそうで怖い)ので、昨日のベンヤミンで書こうと思った内容半分もかけていない(なのに長文)。

とエクスキューズから始めましたが昨日ラスト駆け足になり展開できなかった重要なポイントがあり、本日3日目へ繋ぐため、引き続きとしてベンヤミン『翻訳者の使命』(ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミンコレクション② エッセイの思想』)に少し触れるというズル(?)をするが、前回「翻訳」とは「純粋言語 (die reine Sprache)」「真なる言語(die wahre Sprache)で原作を開封することであるとベンヤミンは言うているよ、ってとこで終えた。それはすなわちどういう行為か。「翻訳」とはまず「翻訳不可能なものを規定する」ことである。

「すなわち、翻訳から伝達に関わる要素を可能なかぎり取り出して、それを翻訳したとしても、真の翻訳者の仕事が目指したものは触れられることなく残されたままである。それは原作の詩人の言葉と同様に、置き換え(Übertragung〔翻訳〕)不可能なものなのだ。というのも、内実(ゲハルト)と言語との関係は、原作と翻訳とではまったく異なっているからである。つまり、原作においては内実と言語が果実と外皮のようにある種の統一を形成しているとすれば、翻訳の言語はその内実を、ゆったりとした襞をたたえた王のマントのように包みこむ。なぜなら、翻訳の言語はそれ自身よりも高次の言語を意味し、そのことによってそれ自身の内実に対して不適当で暴力的で異質なものにとどまるからである。」ー『翻訳者の使命』(原1923)

ここで内実(Gehalt)を少し話しておくと、ベンヤミンはゲーテにならって内実を「内的形式(Die innere Form)」とも呼ぶが(by『ヘルダーリン 二つの詩』)、原作はこの「内実と言語の統一」(innnere FormとFormの一致)とされている。でその外皮である原言語を引き剥がして別言語という「襞をたたえた王のマント」で包み込む(という比喩にベンヤミンはしているが、もっとこうなんか「母体から生まれたての赤子を包み込むための産着」の方が私の感覚的には近い)。そのマントは本来「不適当で暴力的で異質なもの」であると。

こっからちょっと文意が通りずらい部分であるが、

「この不整合性があらゆる置き換えを妨げると同時に不要なものにする。というのも、言語の歴史のある特定の時点でなされたあるひとつの作品の翻訳は、いつでも、その作品の内実のある特定の側面に関して、他のすべての言語による翻訳を代表する(repräsentieren)からである。したがって、翻訳は原作をあるひとつの言語領域へと移植する。それは少なくとも、原作がこの領域からはもはやいかなる置き換えによっても動かされえず、この領域へともっぱらたえず新たに、他の部分に至るまで高められうる、というかぎりで ーーイローニッシュな意味でーーより究極的な言語領域なのである。ここで〈イローニシュ〉という言葉からロマン派の人びとの思考過程を想い起こすことは無意味ではないだろう。」

他言語の翻訳は結局は原作に対して「その時点からの一側面での形式」にすぎない、「不完全性」を指しているが、ここで捉え違いしてはいけないのが、「内実と外皮が統一」されている「原作」が「完全」であるということではないということ。「翻訳の不完全性」に対して「原作の完全性」を礼賛するという論ではないこと。ドイツ・ロマン派が参照されているからこそのポイントで、つまり「翻訳」は内実 innnere Formに対する外皮=言語 Formの「不完全性の自覚」=反省=否定があるからこそ、原作すら未だ持っていない「本来の完全性」が透かして見えてくるということ。この「翻訳」というもののこの反語的(イローニッシュ)な位置です。

でここでようやく3日目ポール・ド・マン『美学イデオロギー』収録の『アイロニーの概念について』に移る(前段なげえ)。

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相変わらずお写真でド・マン本を嬉々と並べていますが、ド・マン邦訳少ないので、ドマンも取り上げるセーレン・キルケゴール『イロニーの概念』(上20巻下21巻)を『キルケゴール著作集』全21巻別冊1巻(白水社1962ー70)をまとめて並べて、Fr・シュレーゲル『ロマン派文学論』(山本定祐訳富山房百科文庫1999)と、はったり枠にFriedrich Schlegel : Lucinde 1799をKIndle原著0円(『ルツィンデ』邦訳は国書刊行会版『ドイツ・ロマン派全集第12巻 シュレーゲル兄弟』(1990)に収録されているけど手元にない)で飾りました。

結局、ド・マン『アイロニーの概念について』は、F・シュレーゲル(※以後シュレゲールはフリードリヒ・シュレーゲル(F)の弟のことでの兄(A・W)には触れません)と、知識学「反省」の概念でロマン派に深い影響与えたフィヒテを論じている。とくにこの誤解されがちのシュレーゲル(誤解するやつはそもそも読んですらない)、また難解で有名なフィヒテに関してド・マンは見事な手際で解析していく。

なお、私がこのド・マン「イロニー論考」に最初に触れたのは20世紀末の『批評空間』(太田出版1998)連載時の『美学イデオロギー』で、写真にもある第2期16号17号で掲載されたもの。私からすると「目から鱗」論考だったが、その後とくに話題になることもなかったように思う。

今回『批評空間』掘り出して頁めくってみたら驚いた。なんと柄谷行人カントーフロイト論と東浩紀『存在論的・郵便的』の間にひっそりと挟まれていたんですね。これはなかなか歴史的イロニーであるなあ。なぜなら「批評空間」系は柄谷行人を筆頭にイロニーの理解がどうにも浅薄だと私は考えているからだ。

柄谷はイロニー(Irony)/フモール(ヒューモア Humor)二項対立によるフモール(ヒューモア)優位説を展開するけど、それおっぱじめたのはキルケゴールの1841年の学位論文『イロニーの概念』であり、その後の戦後フレンチでジル・ドゥルーズなんかまでフモール優位説継承しているが、そもそものドイツ・ロマン派はフモールもウィットもイロニーも全部横並びに使っているのが史実であり、しかもほぼ同じ事態を指す「言い換え」にすぎない。また柄谷行人は

「イロニーが他人を不快にするのに対して、ヒューモアはそれを聴く他人をも解放する」ー柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』1992(講談社学術文庫1999)

というフロイト精神分析併用して変な解釈(というかこれ社会心理学的解釈だろう)を施すが、シュレーゲルにしてみたら「何それ?」って感じだろう。「イロニーが分からない人にはどんなに言葉尽くして説明したとしても謎のまま残る」とシュレーゲル自身が言うように、ぶっちゃけ人に嫌われようが好かれようが正直どうでもいい、という領域が「イロニー」なのであるから、何か決定的に勘違いしているように思う(こう言っちゃわるいが青っ臭い「自己啓発」臭を「日本の文芸批評」は歴史的に隠し持っている)。
また、キルケゴールも二項対立ではなく彼は三項で考えていて、というか「イロニカー→フモリスト→キリスト者」という弁証法的展開なので、フモールはあくまで通過点という神学徒解釈である。その先の「キリスト者」をこそっり隠蔽したままヒューモア論をやる前に、柄谷行人はキルケゴール的意味でイロニカー→フモリスト→キリスト者となった戦後作家椎名麟三でも論ずるべき(書いてたらすいませんね)。

とまた横道をそれてしまったが、ド・マン『アイロニーの概念』に戻ります。本論考は、ポストモダーンと侮るなかれの秀逸な論考(正確に言うと1977年オハイオ大学講義のテープ起こし)で、きっちりとドイツ・ロマン派の問題系と向き合っている(ド・マンは常にそうであった)。まずシュレーゲルを憂鬱でシリアスなロマンティカーと捉えない(何故か一般流布でドイツ・ロマン派といえば、「イロニーが他人を不快にする」解釈のせいか自己愛過多で性格が悪く幼稚で憂鬱な青年たちと解釈される)。

ヘーゲルやキルケゴールが激怒したという猥褻寓話『ルツィンデ』(端的に恋人ドロテーアとのセックスを哲学用語で描写したとも言われる)をド・マンは本論の中心に据えたことででわかるように、シュレーゲルを軽薄で哄笑のイロニカーであると捉えている。これ別書でタイトル思い出せないが、当時のベルリン社交界伝聞本でこの『ルツィンデ』モデルとなったお相手のドロテーアがセクシャルでもコケットリーでもなんでもない、子持ちのもっさい中年婦人であった証言なんかもあってとても面白い。

そしてフィヒテ。シュレーゲルらロマンティカーに与えた世紀の三大事件(フランス革命・ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスター』・フィヒテ『全知識学の基礎』)としてフィヒテ知識学は外せないわけだが、この非常に難解なフィヒテの思想に対するド・マンの説明の手際も鮮やか。

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フィヒテの「措定 setzen」の概念は、まず「自己 (Ich)」を「措定(setzen)」することから始まる。この「自己」は心理学の自己ではなく論理的・言語的なカテゴリーだから心理的に説明できるものではない。これは主語のようなもので、文章・論理始めるには我々はまずセット(setzen)する必要がある。その際に必ず「非自己 (das Nicht-Ich)」も同時にセットされることになる。この「措定」とはすべての「判断」なわけであるが、ここでド・マンはその論理の「綜合判断」と「分析判断」のユニークな構造について触れる。

「フィヒテによればこのような綜合判断を行なう場合、あらゆる存在物は、それがどんなに他のものと似ていようとも、少なくとも一つの徴表(Merkmale)だけは他のものとは似ていないはずです。あらゆる存在物は、少なくとも一つの徴表にかんするかぎり、互いに区別されうるものでなければなりません。すなわち、もし私がAはBと似ていると述べるとすれば、じつはそこではAとBとを異なったものとして区別するXが想定されているのです。もし私が鳥は動物であると述べるとすれば、そこでは諸々の動物のあいだの差異が想定され、動物一般と鳥の差異が想定されているのであって、だからこそ私はこうした比較の陳述を行なうことができるのだ、というわけです。これが綜合判断であり、この判断はこのように類似性が述べられるときでも差異を要請し、差異を想定しているのです。一方、私が分析判断、すなわち消極的判断を行なって、AはBではないと述べるとしたら、そこではAとBとを同等のものとする徴表Xが想定されています。もし私がたとえば植物は動物ではないと述べるとすれば、そこでは植物と動物が共有している徴表が想定されているのです。この場合であればそれは、植物と動物が共有しなければならない、有機体そのものの原理でしょう。ともあれ、このような徴表が想定されるからこそ、あるものが他のものではないと述べ、そうした分析判断を下すことが、私に可能になるわけです。こうしてみると、この体系においてはいかなる綜合判断もつねに分析判断を想定している、ということがおわかりになるかと思います。もし私があるものとあるものが似ていると述べるとしたら、私は暗黙のうちに差異を想定せざるをえず、またもし私があるものとあるものとが異なっていると述べるとしたら、私は暗黙のうちに類似性を想定せざるをえない、というわけです。」

この独特な判断の循環構造、「A(似ている/似ていない)」という判断には「非A(似ていない/似ている)」の徴表が必ず一点含まれる、をド・マンは「メタファーの構造、譬喩の構造にほかならない」と指摘する。これはシュレゲール『ルツィンデ』の哲学書であると思った瞬間にセックス教本が見える構造がまさにこれである、と。そしてそのように作品をセット(setzen)することが、作者であり読者の行為遂行的な力だと。でそのAの中に全く真逆の非Aを透視した時に起きる「中断」が、イロニーだと。それはギリシャ劇で合唱隊が物語の筋と関係なく作者の主張を観客に向けて直接訴える「パラバシス」なんだとド・マンは言う。

「アイロニーとは譬喩のアレゴリーの永遠のパラバシスである」

これがド・マンのシュレーゲル論から導き出したイロニーの定義。これは「破綻の形式」であり「中断の形式」であり「物語の筋の解除の形式」であり「宙づりの形式」である。またこの定義の中に「パラバシスが永遠であればパラバシスでない」というイロニー(中断が永遠に中断であれば中断ではない)までもちゃんと含まれている。

といったわけで今回は内容紹介がちにできて日付またがないで済んだが、こちら『美学イデオロギー』(平凡社ライブラリー2013)は、頭に収録されてる編者序論がポストモダーンレトリック過多で退屈すぎるのが不幸で積ん読率高い本であるかもしれませんが、「アイロニーの概念」は文学徒なら必読ですよ。日本にはびこるヒューモア優位論がいかに空疎な「自己啓発」かよくわかるでしょう。

また、これ「文学とは翻訳詩の問題」という私のテーマセットにも、非常に近似のところにあることにお気づきであろうか。「措定」はドイツ語でsetzen。前回『翻訳者の使命』原題も記載しましたが、Die Aufgabe des Übersetzers です。üversetzen=「翻訳」。ハイデガー的に言葉遊びすれば

üverーsetzen「超ー措定」

なので、

・「A(似ている/似ていない)」という判断には「非A(似ていない/似ている)」の徴表が必ず一点含まれる。

・アイロニーとは譬喩のアレゴリーの永遠のパラバシスである

この命題を「翻訳詩の問題」に借用した時に見えてくる立ち位置がある。

【7日間ブックカバーチャレンジ】業界飲み会でお会いして以来懇意にしていただく元小学館取締役であり国語辞典編纂に長らく携わっていらっしゃった佐藤宏さんよりご指名いただきました。これは「読書文化の普及に貢献するためのチャレンジで、参加方法は好きな本を1日1冊、7日間投稿する」というもので、ルールは「本についての説明はナシで表紙画像だけアップ」&「その都度1人のFB友達を招待し、このチャレンジへの参加をお願いする」とのことらしいですが、持田は本チャレンジを変則バージョンとして本の内容説明をガチに論じ、友達招待指名も「持田のブックハラスメント」と呼ばれかねないためしません。参加したい人はどんどん参加していいと思いますよ!

#7days #7bookcovers #BookCoverChallenge


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