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#7日間ブックカバーチャレンジ【1日目】マルティン・ハイデッガー『「ヒューマニズム」について』(渡邊二郎訳:ちくま学芸文庫 1997)

以下は2020年5月10日に個人Facebookに投稿したものですが、コピペ投稿します。こちらコロナ禍時代に一世風靡した「ブックカバーチャレンジ」持田変則バージョンで既に3日目まで実施しましたが、私のいつもの悪い癖で内容ハイカロリーすぎて日常の社会人生活に支障きたしかねないため、一旦止めました(よくもわるくも物量的に3日で常人の30日分はポストしたとは思います)。改めてチャレンジの続きはやりつつ、ここで變電社仮説店舗としてnote運用開始します!

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#7日間ブックカバーチャレンジ
に参加!(詳細は末尾で)

【1日目】マルティン・ハイデッガー『「ヒューマニズム」について』(渡邊二郎訳:ちくま学芸文庫 1997)

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奥のドイツ語『存在と時間 Sein und Zeit 1927』(MAX NIEMEYER 1996)と『ヒューマニズムについて Über den humanism 1947』(Vittorio Klostermannn 1991)なんか置いているのは、単なるはったりであるが(こんな真似を嬉々とやってるやつおるやん)、さらに奥に手元にあったハイデガー並べていますが、他にもいろいろ読んでいますよ(『ダヴォス討論』が今はお高いよう)。

ずいぶんお待たせしたブックカバーチャレンジついに参戦しますが、こういうのもあって腰がだいぶ重かった。本というのは一冊で完結するものでなし、その一冊に洋書晒して偉そうにするもんでもなし、一冊読めば30冊、30冊読めば900冊、900冊読めば27000冊と「読むべき文献」は累積的に増える。すなわち「読んでいない本」リストの方が長くなる。そうやって教養が形成され、知識に対する畏怖と貪欲が生まれる。

もっとも、このチャレンジは佐藤さんより4月末に回ってきたのに何も出さないのは失礼にあたり、この土日で対応しなければきっとずるずるAmazonPrimeで無駄にアメリカンドラマ見続けるだけだろうと怯えてきたので、もうエイヤで参ります。このGWにだいたいは絞れて「7冊はこれで」の枠組みは決めました。が、

https://www.facebook.com/yasushi.mochida/posts/10222207632963721

で書いたように「私の趣味判断の「原理」成分となった本やら、變電社で取り上げようとしたまま眠ってるネタ初公開なども含めつつ」の姿勢ですすめます。

さて、1日目から大量にブックカバー並べているが、いろいろ迷った末に、この一番上の『「ヒューマニズム」について』(ちくま学芸文庫 1997 ※以下『ヒューマニズム書簡』)。佐藤さんからエドムント・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(細谷恒夫・木田元訳/中央公論社/1974)で指名いただいたために、

https://www.facebook.com/peacemediums/posts/2931677153574961

「であれば」誠意あるレスとして、マルティン・ハイデガーかなと考えた。(※渡邊訳だとHeideggerは「ハイデッガー」表記ですが、私からすると「ハイデガー」の方が発音的にしっくりくるので以後はハイデガー)。

まず、わたくし自慢ではないが中年の「未完の文学徒」(本当自慢にならない)として、最近とみに思っている文学観があり、「つまるところ文学とは翻訳詩の問題」というもの。最近は「詩が分からないやつは文学はわからない」とまで偉そうに言い切ったりもする結果、最もダメージ食らって泣きたくなるのは私自身である。告白すれば詩を鑑賞こそできれど、やはり私は「詩が分からない」。常に問い直し、読み直し、を迫られる。こんな文学観の感度からハイデガーの思想は存在論より「詩論」として顧みるに値する。

とはいえ本著紹介でもって何も詩の小難しさだけに耽溺したくもないので、ドイツ哲学研究者の故渡邊二郎(1931 - 2008)先生の貴重な後期ハイデガー講義にもなっていてとてもいい本ですよ、とお勧めしたい。本文は150頁くらいで終わり後半250頁が精緻な渡邊先生の訳注と解題と解説。この本一冊で所謂「転回 die Kehre」後のハイデガーの思想と戦後の歩み(牧歌的ともとれる)がよくわかる。

例えば1955年初めてパリで訪れたハイデガーが自身がパリにいることに驚いていて、「パリは自由に遊んでいる町だなあ。警官でさえ、路上で警棒を振って遊んでいる」なんて言ったという話とかとてもいい。「パリのアメリカ人」ならぬ「パリのドイツ人」ってベンヤミンもそうだけど、何か特別なものがある。

こういったオフショットも含めて本著は『存在と時間』よりハイデガー入門書としても相応しい。ハイデガーの思想はアクセントをどこにおくのかで大分変わるが(戦間期「危機の時代」の哲学者とみるか、戦後の一部教組化された「存在の牧者」としてみるか)、ただ彼の人生を振り返った時に見えてくるのは、1927年『存在と時間』は20世紀哲学の特別な問題提起ではあれ、これを「前章」と呼ぶことさえ実は心許ない。

結局『存在と時間』という著作自体が、知っている人には言わずもがなで、刊行部分はその論述の前半のみであって、後半は出版計画されていながら廃棄された「未完の存在論」であり、その座礁の中でハイデガーはヘルダリン詩へ沈下していく(これが所謂後期思想へのKehre)。この戦中の詩の沈黙期を破って『存在と時間』以後初めて、書簡の形での公に「質疑応答」したのがこの「ヒューマニズム書簡」。よってここに思想形成過渡期のハイデガー思想の焦点と考えて問題ない。というかそれゆえにこういう本が出ているわけだから、俺が偉そうに断言するまでもない話です。

この『ヒューマニズム書簡』で表明しているが、その存在論における「形而上学」の断念である。というか「形而上学的語法」の断念である。結果、後期ハイデガーの「思索と詩作(Denken und Dichten)」という有名な命題が生まれ、ハイデガー自身が語る「言葉は存在の家(Die Sprache ist das Haus des Seins)」論になる。これ私がもうここで野蛮に言い切ってしまうが、ハイデガーが発しているメッセージは端的に以下。

「我々は誤訳してきた」。

「西欧形而上学とはプレソクラテスギリシャ思想の誤読であり誤訳である」と。ここで勘違いしない方がいいのは、ハイデガーは「古典哲学の訓詁学者」であったわけではなく、初期ギリシャ人のギリシャ語の扱い方と考え方をドイツ語に落とし込んで考えていた「翻訳家」であったということ。それは30年代ヘルダリン研究が大きい。そもそもヘルダリンブームというのが20世紀初頭にドイツで起きていて、1910年ヘルダリンのギリシャ詩人ピンダロス翻訳断片が発見されたことによる。ゲオルゲら象徴派詩人に象徴派の先鞭と目され、遺稿整理されて本格的全集が世に出たのが1910年代から20年代にかけて。その狂気の後期詩篇とヘルダリン翻訳詩の影響はリルケ、トラークル等ドイツ詩人だけでなく、ハイデガーそしてベンヤミン、アドルノもきっちり受けている。ドイツロマン主義の中で他の詩人たちと比較してヘルダリンが「近代」の刻印が鮮やかなのは、この再発見による。この再発見は日本浪曼派の近代解釈にも影響与える。なので明治日本のロマン主義(自然主義)と昭和日本のロマン主義(浪曼派)は決定的に違う。

だからよく戦後フランス思想への影響からみたハイデガー思想というのが元祖「脱構築」的に扱われたりするわけだが、端的に上記の「形而上学=誤訳史の訂正」だったと思えばもっと話は単純だろう。でそれを導いたのが再発見されたヘルダリンのギリシャ詩翻訳である。ここで重要なのは「翻訳の問題」であること。訓詁学ならびに原典主義ではない(ロゴセントリズムではない)ということ。この「ヒューマニズム書簡」におけるサルトルらフレンチ「実存主義はヒューマニズムである」論への返答としての批判は、言葉通りの安直な「ヒューマニズム批判」でなく「形而上学=誤訳史の訂正」であること。でこれは「ヒューマニズム」言葉の本来の「意味」(本来性)はこうだった、という語源語義の遡及解釈であるというよりは、言葉のPotenzを「翻訳」という力でこじ開けていく作業に近い。ここを勘違いするとハイデガーのドイツ語の存在論(Es gibt)を見誤るだろう。

そんなわけで、続きは改めて二日目の紹介に引きついで参りますが(もしかしたら、ブログでもう少し細かくやりましょう。結局ながくなりそうなのでヘルダリンになんも触れていない)、次回は、勘のいい方おわかりでしょうから予告しておくと、ベンヤミン『翻訳者の使命』です(たぶん。この流れならば)。

最後に、我々は日本人もこういう思想哲学史外国語詩史を学ぶ上で覚悟しないといけないのは、原典原語で解釈するだけでなく我々日本人は日本人としてこの「ギリシャードイツ語」の了解圏にさらに「日本語」をぶっ刺していかないといけない点。だから我々は常に「誤訳しているぞ」という自覚と「日本語であれば?」の問いが求められる。これは、単に翻訳ロボット的な言語操作でもない。私という発話物体を通した「日本語史」と「外国語史」の激突であって、その激突の中に、近代という時代の狂気可憐なるカレイドスコープがあった。と私は思っているので、ギリシャードイツのハイデガーより錯綜しないわけにはいかないが、フランス戦後思想だってつまりそういうことをやっていたわけである。

これ結局は文学徒が常に持っていなきゃいけない感度であり言うなれば「アキレスと亀」の自覚であろう。完全に了解できるものなどあらしない。が了解しようとしないなら最初から「読む」徒労などに時間かける必要はない。よって「未完の文学徒」というのは自慢にならないが、我ながら誠実で正しい態度であると思うところであります。なお上記ハイデガー解釈の責任は持ちませんので、皆さん『ヒューマニズム書簡』読みましょう。

【7日間ブックカバーチャレンジ】業界飲み会でお会いして以来懇意にしていただく元小学館取締役であり国語辞典編纂に長らく携わっていらっしゃった佐藤宏さんよりご指名いただきました。これは「読書文化の普及に貢献するためのチャレンジで、参加方法は好きな本を1日1冊、7日間投稿する」というもので、ルールは「本についての説明はナシで表紙画像だけアップ」&「その都度1人のFB友達を招待し、このチャレンジへの参加をお願いする」とのことらしいですが、持田は本チャレンジを変則バージョンとして本の内容説明をガチに論じ、友達招待指名も「持田のブックハラスメント」と呼ばれかねないためしません。参加したい人はどんどん参加していいと思いますよ!

#7days #7bookcovers #BookCoverChallenge

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