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ハワイタイムマシーンZ/太平洋のど真ん中で 46.追い込まれていく日系人

チャイナタウンの西には、ジャパンタウンがありました

リリウオカラニが亡くなった1917年頃のハワイについてちょっと書いてみたいと思います。

当時のハワイは日本人だらけでした。ほとんどはサトウキビ畑の労働者でしたが、契約を終えて商売を始める人も増えていて、日本人街がつくられていました。アメリカ本土へ行けば、いくつか残っているみたいですが、ハワイからは消えています。どうして消えたか。それは日本とアメリカが戦争をしたから。悲しい歴史です。

ハワイの日本人街は、ヌウアヌ川を挟んでチャイナタウンの西にありました。現在、アアラ・パーク(A’ala Park)と名づけられた公園があるあたりです。今もあるアアラ・ストリートは、かつてはこのアアラ・パークのど真ん中を通っていました。そして、チャイナタウンのように、日系のお店がたくさん並んでいました。中国系労働者よりも、日系労働者の方が多かったので、日系のお店の数もいっぱいでした。このエリアを飛び出して、リリハ・ストリートの方まで続いていたそうです。

WEBで「hawaii、Japantown、1920」とかで検索すると、当時のモノクロ写真がいろいろ出てきます(アメリカ本土の写真なんかも出てくるので、ちょっとわかりづらいかもしれません)

このあたりは、ホノルル港に近いだけでなく、サトウキビ列車の始発場所です。現在のワイキキみたいに賑わっていました。

ハワイ諸島はサトウキビ列車だらけでした

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ハワイに初めてのサトウキビ列車が通ったのは、1879年です

それ以降、ハワイ諸島のあちこちをサトウキビ列車が走るようになりました。2020年9月現在、ハワイ諸島に観光目的以外の鉄道は通っていませんが、1920年ごろはあちこちをサトウキビ列車が走っていました。

もう少し年代は後になりますが、例えばハワイ島でこんな感じ▼

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当時、どんな列車が走っていたのか、そういう写真もWEBで見ることができます。「hawaii、sugar cane train、history」で、検索してみてください。いろいろ出てきます。が、そこに出てくるカラー写真は、最近走ってる(走っていた)観光用の列車です。モノクロ写真で表示されるものが、当時の写真です。

鉄道会社を運営しているのは欧米人でしたが、機関車運転士になる日系人もけっこういたようです。

・サトウキビ畑の労働者で一番多かったのは日系移民だった
・が、賃金は一番安く、住居などもあんまりいいものではなかった
・契約が終わると、商売を始めたり転職をする人も多かった

ハワイのサトウキビプランテーションはどんどん進化しているのです。そこでがんばって働いている日系人の待遇も、もっと良くなっていいのではないか?というわけで、第2次ストライキが起こります。

1920年、第2次ストライキが起こります

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1909年5月に日系人労働者によるストライキがあったことは第44話で書かせていただきました。その時は、中国人系労働者によるストライキを真似たものというだけでしたが、戦略をいろいろ考えて1920年に第二次ストライキを起こしました。フィリピン系の労働者移民と組んででっかく仕掛けたのです。

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またしても登場、ハワイ日本人移民史

1920年当時のプランテーション労働者の割合が円グラフになって記されています。

第41話で紹介させていただいた労働者の円グラフでは、日本人は3分の2を占めていました。が、1907年の日米紳士協約以降、労働者移民として連れてこられる日本人はいなくなったので、半分以下に減っています。そして、圧倒的に増えていたのがフィリピン人でした。アメリカ合衆国がスペインに勝ち(第42話参照)フィリピンをゲットしたことで、フィリピンから労働者移民を受け入れることができるようになったのです。

フィリピン人は有色人種です。なので、日系人労働者と同じく、欧米人よりもプランテーションでの扱いは低かったです。日系人労働者は、フィリピン系労働者と組むことを考えます。フィリピン人約2800人を仲間にした約1万3000人で、第二次ストライキを起こします。1920年のことです。

1回目の教訓を活かし、かなり頑張りましたが、結果は何も得られなかったそうです。

当時の欧米人の間では、反日感情が高まっていました。理由はいろいろあるんでしょうけど、ストライキを起こしても結果が得られないのは、その反日感情も大きな原因、と、わたくしは思ってしまいます。そして、価値観の食い違いは、嫌な感じの感情をさらに膨らませていきます。それは同じ人種の人間同士の時よりも大きいものでした。

1921年、アラワイ運河の工事が始まります

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現在、日本からハワイ旅行へ行かれる方のほとんどは、オアフ島のワイキキに宿泊されます。ハワイと言えばワイキキって感じです。が、この当時のワイキキは、リゾート地としてスタートしたばかりで、ダウンタウンに比べたらちょっとした避暑地みたいな場所でした。そんなに人はいないし、建物も多くありません。山側には水田が広がり、タロイモや稲が植えられていました。マノアから流れてくる水が、湿地帯をつくっていたのです。

1901年に、モアナホテルが造られ、ワイキキの海岸線がリゾート地として生まれ変わり始めると、困った問題が発生します。湿地帯は蚊を発生させます。その蚊がリゾート地へやってきてしまいます。くつろいでいたら、ブーンと蚊がやってきて刺されるわけです。これはたまらん。かゆいだけじゃなくて、当時は蚊に刺されることはいろんな病気にかかってしまう危険性がありました。これをなんとかせねば。

そこで考えられたのが、ワイキキのリゾート地の手前に巨大な運河をつくるというものでした。マノアから流れてくる水を運河にためて、そのまま一気に海へ流すのです。運河ができた後、もし山側で蚊が発生してもワイキキまで飛ばないように、ということで、ぶっとい運河がつくられた、と。今聞いたら冗談みたいな話ですが本当みたいです。

工事は1921年に始まります。巨大な運河なのですごく時間がかかっています。完成するのは1928年。昭和3年のことです。

運河というと、日本語では船が通るために造られた水路を指すことが多いです。なので、「運」という字が使われているわけですが、アラワイ運河は水路ではありません。蚊除けのためのぶっとい水路なんです。

もうひとつ。アラワイという名前ですが、これは一般公募で決まった名前やそうです。いっぱい集まったんやろうな、と思ったら、なんと12件。ううむ、少ない。寂しい。

。。。。つづく


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