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ハワイタイムマシーンZ/太平洋のど真ん中で 41.共和国になったばかりのハワイ

ウィルコックスが再び立ち上がります

乗っ取られるようにしてハワイ王国を潰されたことに対して、ウィルコックスが再び怒りをぶつけます。ハワイ共和国ができてすぐの1895年、ウィルコックス(1889年にクーデターを起こした男)が再びクーデターを起こします。

ハワイ好きの方なら、ウィルコックスをご存知の方はいらっしゃるかもしれません。が、このクーデターについては、
「反乱を起こしたけれどすぐに制圧された」
ぐらいにしか認識されていなかったりします。

ちなみに、この頃の新政府は「ホノルル・ライフルズ」に代わる「ナショナル・ガード・オブ・ハワイ」という国家警備隊をつくっていました。これに対し、半分以下の500人で仕掛けています。倍以上の戦力に勝てるわけがなく、反乱は4日間で鎮圧されています。あっという間でしたが、けっこう頑張ってます。戦場は以下の通り。

・ダイヤモンドヘッド
・モイリイリ
・マノア

詳しくはWikipediaで紹介されています。あ、英語です▼
https://en.wikipedia.org/wiki/1895_Wilcox_rebellion

リリウオカラニは、イオラニパレスに幽閉されてしまいます

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この時のリリウオカラニがどう動いたのか、どう感じていたのか、いろんな本でいろんなふうに書かれています。いろいろな見方があると思うので、詳細は書きませんが、リリウオカラニは、ハワイアンの幸せを考えて新政府と戦うのをやめます。わたくしがいろいろ読んだ中で、一番詳しくて細かく書かれていると思ったのがこのサイトです▼
リリウオカラニ女王自伝を読む(日本語です)

ちなみに、このサイトには、リリウオカラニの旦那さま、ジョン・ドミニスがどんな人やったかも書かれています。わたくし、ふたりはラブラブやったと勝手に思い込んでいたんですが、違ったんですね。衝撃でした。

そんなことより、ウィルコックスのクーデターです。この頃のハワイ共和国は、反政府的な動きがいろいろ起きていました。共和国政府はこれをなんとかしたかったのでしょう。ウィルコックスの反乱の首謀者としてリリウオカラニは逮捕されてしまいます。

これについてもいろんな説があるみたいですけど、わたくしはリリウオカラニは濡れ衣を着せられたと思っています。その後、リリウオカラニは、死刑を宣告されているウィルコックスら6人を救うために王位を放棄することにします。王位を放棄することでウィルコックスらを救うことはできましたが、リリウオカラニは、イオラニパレス2階の、窓が白く塗られ外が見えないようになっている部屋に幽閉されてしまいます。

ハワイの人々は、イオラニパレスの前を通るたびに、「あそこにリリウオカラニ女王がいらっしゃるんだ」と思って悲しみました。反乱する側の気持ちを抑えるにはいい方法だったかもしれません。

ちなみに、幽閉期間は5年と言われていたのですが、リリウオカラニは半年で開放されています。

ハワイ王国が消えたことで官約移民は私約移民になりました

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ハワイ王国が崩壊し大きな影響を受けた人々がいます。労働者移民です。前回、日本からの労働者移民を守るために、東郷平八郎が軍艦浪速に乗ってやってきた話は書かせていただきましたが、具体的にどうなったのか。

再び登場、ハワイ日本人移民史(ほんまに参考になります)

第4章83ページに、1894年当時のプランテーション労働者比率のグラフがあります。

・日本人 64%
・支那人(中国人)13%
・葡国人(ポルトガル人)10%
・ハワイ人・ハワイ系 8%
・その他 5%

なんと、半数以上が日本からやってきた労働者でした。彼らは日本政府とハワイ王国の契約を利用してハワイまでやってきていました。王国が滅びることで、官約移民が終わり、私約移民がスタートします。私約移民とは▼

・サトウキビプランテーション会社と契約した契約移民
・個人的にハワイ入りする自由移民

ハワイへの移民手続きを行う移民会社だけでなく、手続きや手配を行う代理店がたくさん作られました。

日本からの移民たちは、ハワイに小さな日本をつくっていました

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日本からの官約移民が到着したのは1885年、リリウオカラニが幽閉されて釈放されたのは1895年のこと。ほんの10年の出来事です。その短期間で労働者移民の半分以上は日本からやってきた人々になっていたのです。

日本からの移民たちは、そんなに良くない生活環境、労働環境、安月給(他の国からの移民に比べてという意味で、日本よりは良かったみたいです)に耐え、もくもくと働きました。

そして、ハワイでの生活を安定させていきます。

この写真は1898年のもの。ちょうどイオラニパレスに、アメリカの旗が掲げられた年です。出稼ぎでやってきた日本人たちの中には、ハワイで暮らすことを考える人も増えていました。結婚して子どもが生まれ、その子どもたちに日本文化を教える学校がつくられています。これはその日本語学校の写真です。

※1897年にパリハイウェイのルーツとなるパリ・ロードが開通しています。
(ホノルルからコオラウ山脈を越えてカイルアへ行く道です)

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おまけ/当時移民たちはこんな船に乗ってやってきていたそうです。

。。。。つづく


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