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ハワイタイムマシーンZ/太平洋のど真ん中で 43.ワイキキにモアナホテルがつくられた頃のハワイ

ハワイが、ハワイ準州となった年に、チャイナタウンは燃えました

サトウキビプランテーションの労働力を増やすために、清(中国)から労働者移民を受け入れたのは1852年のことです。

その後、ポルトガルや日本からも労働者移民を受け入れた事で、ハワイ準州は移民だらけになっていました。最初の労働者移民は、契約期間が終わったら商売を始めてもよかったみたいです。そんなわけで、ダウンタウンの近くに、いつの間にか移民たちの町みたいなものができていました。住んでいるのは主に、中国人と日本人です。

1900年、ハワイがアメリカの準州になった年にここで大火災が起きています。簡潔に書きます▼

・移民たちの町は不潔でペストが発生していた
・ハワイ準州となった政府は、不潔なエリアをなんとかしたかった
・汚染環境をなんとかするために特定された場所を燃やそうとした
・突風のせいで火災エリアが広がった
・中国人と日本人の家屋4000戸を破壊した
・その場所は現在のチャイナタウンがあるあたり

ここまで火災が広がったのは想定外だったのか、わざとやったのか、いろんな説があります。とにかく、この火災で、ここに密集していた多くの移住者が散らばったそうです。

・ハワイ準州になった途端
・移民たちがごちゃごちゃ住んでいたエリアが火事になった

わたくしは、この火災が広がったのは、わざとでは?と思っております。

モアナホテルが開業しました

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翌年の1901年、モアナホテルが誕生しています。現在のモアナサーフライダーホテルの前身です。準州になった途端、そんなすぐに造れるものなのか?と思いますが、その通りで、このホテルを設立するため、モアナホテルカンパニーが設立されたのは1896年。ハワイ王国が滅び、ハワイ共和国になっている頃です。ハワイ共和国になった途端、いろんなところで、いろんな投資が始まっていました。

さてさて、このモアナホテルは、新しいものがいろいろと取り入れられているステキなホテルでした。特に、電動エレベーターにはみんな興味津々だったみたいです。

ここで知っておかなくてはいけないのは、当時のこの辺りはまだ田んぼがいっぱいあったという事。マノアから流れてくる山水で、湿地帯みたいな場所だったのです。タロイモではなく、稲作が行われていました。

モアナホテルの後、いろんなホテルが造られています。

・1901年 モアナホテル
・1917年 ハレクラニ
・1927年 ロイヤルハワイアンホテル

この後、ワイキキはリゾート地としてどんどん開発されていくことになります。モアナホテルもどんどん増築され、隣に造られたサーフライダーホテルを吸収したりして拡大していきます。

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▲これは最近のモアナホテル。現在は名前が変わって、モアナサーフライダー ウェスティンリゾート&スパになっています。わたくしがハワイへ上陸した2000年当時は、シェラトン・モアナサーフライダーでした。

プリンス・クヒオがハワイ準州のために活躍し始めます

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ワイキキビーチは、場所に寄って名前が違います。ワイキキ・ビーチ・マリオットの前、カラカウア通りが海に面しているあたりはクヒオビーチと言います。ワイキキにはクヒオ通りという道もあったりします。クヒオというのは人の名前です。カラカウア通りのビーチ沿いに銅像が建てられていますが、この方がプリンス・クヒオです。

簡単なハワイ王朝史にはあんまり登場しないので、謎に思われてる人もいらっしゃいます。

プリンス・クヒオは、カウアイ島最後の王カムウアリイの血族です。が、10代の頃にに立て続けに両親を亡くし、母方のおばさんになるカピオラニ(カラカウアの奥さん)の養子になっています。カラカウアが王になった頃から王国政府のまとめ役として働いていた、と紹介してあることがありますが、カラカウアが王になったのは1874年。プリンス・クヒオは1871年生まれなので、それはちょっと無理です。

王族だから銅像が建てられたのか?というとそうではありません。プリンス・クヒオはハワイのために生きました。

ハワイ王国が崩壊した後、ウィルコックスが2度目のクーデターを起こしていますが、プリンス・クヒオはこれに参加し、捕まっています。23歳の時のことです(ウィルコックス2度目のクーデターについては第41話をご覧ください

釈放された後、プリンス・クヒオはハワイから出ています。奪われていくハワイを見ていられなかったのかもしれません。奥さんと一緒に、ヨーロッパやアフリカを旅したそうです。そして1902年、いろんな世界を見て成長して帰ってきます。

プリンス・クヒオは、その後、共和党の一員となり、ハワイ州代表として、アメリカ合衆国議会の議員となりました。議員になってからのプリンス・クヒオは、ハワイ州をもっと良くするための制度をつくったり、ハワイの人々のための法制度改正などに力を入れました。

日露戦争で日本が勝利します

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第41話に書かせていただきましたが、この頃、サトウキビプランテーションで働く人々の3分の2は日本からの労働者移民でした。1900年にアメリカ準州になったことで、日本からの労働者移民はアメリカでも増え始めます。そして、日本は、戦争で勝ち続け始めます。

・1894年~1895年 日清戦争
・1904年~1905年 日露戦争

日露戦争では、イギリスとアメリカがかなり力を貸してくれていますが、これは、有色人種の国が初めて白人国家を倒した戦争となりました。ハワイやアメリカ本土で働いている日本からの労働者移民は、これらを素直に喜んで大騒ぎしていたようです。

が、アメリカ人からすると、これはちょっと気持ちの良くないことでした。

アメリカで日本人移民に対する排斥運動が起こり始めます。排斥運動といっても、現代のように行進するだけではありません。アメリカ本土では、日本人移民を襲撃する事件が多発し始めます。これはなんとかせねば、と考えた日米両政府は、移民することに対して制限を設けることにします。

・1907年 日米紳士協約

これは、日本からの新規の移民をすべて自主的に禁止するというものでした。再渡航者、アメリカに住んでいる日本人の家族などは例外となります。ハワイは日本人比率が高いので、排斥運動はそこまでひどくはなかったみたいですが、アメリカ合衆国準州なので、この日米紳士協約に従うことになります。

日本からハワイへは移民できなくなりました。でも奥さんなら行くことができます。こうして、写真花嫁(ピクチャーブライド)という方法が登場します。


。。。。つづく


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