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短編小説 『脳みそを洗う』


朝、妻が
「ねえ、そろそろ脳みそ洗ったら?」
と、言ってきた。

だれかに言われて脳みそを洗うことほど面倒くさいものはない。
せっかくの土曜日、ごろごろしようと思っていたのに。

「後で」と言って伸ばし伸ばしにしていたが、夕方になり、とうとう妻の機嫌のつまみが「不機嫌」に振り切れそうになってきた。


怒った妻と脳みそ洗い、どちらがより面倒くさいか。


仕方ない、洗おう。


僕は重い腰を上げ、風呂場に向かう。
どうせ濡れるから服を脱いだ。

鏡の前のプラスチックの椅子に腰掛る。


襟足の少し上を探り、ファスナーを開ける。

髪のついた頭皮を後ろから前にめくりあげると、頭蓋骨が出てくる。

頭蓋骨には切れ目が入っていて、脳が取り出しやすいよう開くのだが、僕の家系は代々小さな金具で固定されている。写真立ての裏っかわについているようなやつだ。


前面と両側面の金具をずらし、頭蓋骨をかぱっと上に持ち上げて開ける。



両手で脳みそを取り出す。
細長い神経がコードのように何本もぶら下がっているので、絡まったり切れたりしないように慎重に扱う。


生暖かい脳みそを両手の上に乗っけてじっくりと眺めた。


なんか、老けたなあ・・・。


子どもの頃はピンク色でツヤツヤと光っていたのに、今では黄色味掛かっている。
毎晩酒を飲んでいるせいか、ぶりんとむくみも見られる。
皺と皺の間には汚れが溜まっている。


仕事にかまけて、ちょっと放ったらかしすぎたかもしれない。


【脳みそ洗いの手順】

1.シャワーをかけて軽く汚れを洗い流す。
ちょっとくすぐったい。

2.ブレインソープをよく泡立てて全体を洗う。
僕は敏感脳用のソープを使っている。

3.軽く水で流した後、綿棒で皺の間の汚れを取り除く。
脳の汚れ取り用グッズはピンキリで、意識の高い人はめちゃくちゃお金をかけるのだが、別に僕は綿棒でいい。そういう人は結構多い。


脳の表面に傷をつけないように、でも汚れを残さないように皺の奥まで綿棒を突っ込んだ。
へへへっ
と、面白くもないのに笑いが込み上げた。

違う皺に綿棒を突っ込むと、つーと両目から涙が流れ、もう少し深く突っ込むと「ああ!!」と声を出して号泣せずにはいられなくなった。


声を聞いて妻が扉の外から大丈夫ー?と聞いてくる。

「大丈夫!今、前頭前野!!」

ああ、と納得して妻はリビングに戻っていった。


4.大体の皺の汚れをとったら、もう一度ブレインソープを泡立てて細かい部分まで手洗いし、シャワーで流す。

5.ブレインオイルを塗る。
脳の動きをスムーズにする、と言われているけど、まあ気休めだ。


これで脳みそ洗いはおしまい。
開けた時と逆の手順で脳みそをしまう。


心なしか視界がはっきりとしたような気がする。



リビングに向かうと、もう夕飯の用意ができていた。

妻の向かい側に座り、二人でいただきますを言って食べ始める。


!!?


「あれ?このドレッシングめちゃくちゃ美味いね!」
「先週から使い始めてたよ」
妻が得意げな顔をする。

!!?

「唐揚げ、カリッカリだね!作り方変えた?」
「前回もおんなじ作り方したよ」
妻がからかうように言う。


!!?


「あれ?髪の色、変えた??」
「一昨日です」
妻が拗ねたように唇を尖らせて言う。

情けない。
僕は肩をがくりと落として言った。
「・・・大変、申し訳ない。
今後は、もっと頻繁に、脳みそを洗うことにします・・・。」

「ぜひ、そうしてくれたまえ!」

おとぎ話の王様のように言った後、妻はニヤリと笑いながらキッチンの奥へ消えていき、
そして一本の赤ワインを持って戻ってきた。

「君が脳みそを洗ったら、一緒に飲もうと思っていたんだ。
美味しすぎて、ぶっ飛ぶよ!」

妻につられて笑ってしまった。
ぶっ飛ぶ前に言っておこう。


「明日、久々にどこかに出掛けない?」


妻の動きが一瞬止まった。
両目が宝石みたいにキラキラ光った。

僕らはなぜかお互いに、ふふふ、ふふふ、と含み笑いをしながら赤ワインで乾杯した。


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