業務や家事としての掃除で悲劇が生まれる理由
掃除が嫌いだ。いや、掃除という作業自体は嫌いではない。
職場での業務、家での家事としての掃除、これが嫌いだ。やりがいが全くない。
理由をひとことで言うと「注意されることこそあれ、褒められることは絶対に無いから」である。
なんかこれだけ見るとなんてヤツだと思われそうだが、説明を加えていってもその印象がくつがえされることは無い気がする。
でもまあ、読んでやってもいいという人のために書いておく。
汚れてるなと思ってキレイにする。これは良い。嫌いじゃない。
この、自発的な行動がポイントなのである。自分から進んでやろうとするからモチベーションが発生するのであって、言われてやるのはモチベーションが上がらない。親に「勉強しなさい」と言われて「やろうと思ってたのに先に言うからやる気なくなった~~」と同じ理屈だ。
だがそれだけではない。人に言われてやる作業の中でも掃除は、特にうれしくない。
それは、常に減点評価にしかなり得ないからである。
掃除をしてキレイにするという作業は「原状回復」である。
自分で汚れに気付いて掃除をすれば「キレイになった!」と思えるが、誰かがおこなった掃除に気付いて他者から「キレイになってるね!」と評価がなされる頻度の、なんと低いことか。
それもそのはず、整っている状態が無意識にベースになっているからである。大多数の人は「汚れた箇所が清掃によっていかに美しくなるか」など気にしていないしそれを声に出す必要性も感じていない。どころか、何も起こっていない最初の整った状況が無意識でベースとなっていて「当たり前」と捉えているので、キレイになっても気づかないし、汚れていると気になるのだ。
するとどうだろう。悲劇が生まれる。
掃除に関して声を上げるのは、決まって「汚れていると気づいた人」になってしまうのである。「汚くなってきたね、掃除しないと」などと言われるとマジでやる気が起きない。
さらに悪いことに、自分が「汚れているな」と思って掃除をしても、キレイになったことに気づいてもらえない確率は相当高い。掃除前との相対評価はほぼ発生しないし、「現状回復された当たり前の整い具合=いつもどおり」となり意識にものぼらず終わってしまうのだ。
これによって掃除は目に見えない作業となり、耐え忍ぶ作業と化してしまう。
「キレイにしました!」と声をかけて掃除後の意識付けができたとしても、掃除される前の汚れてる具合を相手が認識していなければ、「何か変わったの?」となって逆効果である。
ということで、掃除という行いへの評価は、意識していない人には「どうでもいいこと」で、意識してる人には「積極的に加点していくべき案件」となる。よって私は、掃除を意識し相対評価してくれる人とは掃除の話をするが、そうでない場合は一切その話をしない。できるだけ話題に上がらないように相手の無意識へ押しやるイメージで作業をする。でも大体の場合、そういう努力が必要な相手は私に「掃除しないとね」と声をかけてくるのである。。。
ひとつ断っておくと、実家を出てからというもの、「掃除しないとね」と声をかけてくる同居相手と組んだことは無い。ルームシェアした友人も、妹も、みんな掃除を相対評価してくれる人ばかりだ。
てことで必然絞られてくるのだが…私が嫌だと言っているのは、職場での掃除である。転職を2回経験しているが、この経験は、どの職場でも起こる悲劇である。
そんなことを考えながら、今日もこっそり掃除をするのであった。
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