カメラ好きの友人たちの写真が好きで頼りにしている話


前記事で、私は自分の容姿を気にかけず生きていて、だから記念撮影が苦手だと書いた。

以前なら写真を見返すということ自体が苦手だったのだけど、今は考え方が少し変わって、写真は記憶のバックアップだと思うようになったことと、バックアップしておきたいくらい楽しい思い出が増えたということで、写真を撮ってもらうのも見返すのも好きになった。集合写真も、見返した時に誰と一緒に遊んだかすぐ分かるし何を話したかなどを思い出すきっかけになり楽しいので、気が付けば「撮りたい!」と言うようにまでなった。
だが、いかにも記念撮影らしいものだけは未だに苦手だ。「記念」と名がついているのに、何気なく撮られた写真と違って、撮った瞬間の楽しい記憶の断片などがほとんど残らないにも関わらず、撮るべくして撮られた雰囲気は残る。そこには前記事に書いたとおりの「期待外れの自分」がいるのである。私にとって記念撮影とは、いかに自分の容姿が自分の思い通りにいかないかという意識付けだけを行う行為なのである。だから「撮りますよ」という雰囲気で撮られる写真には、苦手意識がある。苦手意識を抱えて「良い顔」などできようはずもない。表情も含めて、何もかもがっかりである。

そうは言いつつ、写真への苦手意識が薄れる方へ向かっているのは事実で、それは友人たちが撮ってくれた写真のちからが大きい。私にはカメラ好きの友人が何人かいて、友人たちの撮ってくれる写真は良い。ここで私のお気に入りの写真を挙げさせていただく。

画像1

画像2

画像3

※少し加工を施しているものもあるので元の写真とは伝わる雰囲気が若干違っているかもしれないが、それでも見てほしいと思ったので載せることにする。

友人たちが撮ってくれた写真はなぜ良いのか。理由は大きく2つある。
(以下、友人に対して言うにしては ちょっとよそよそしく感じる表現があるかもしれないが、あんまり馴れ馴れしい表現は私の感覚としてためらわれるので、こんな感じで許してほしい)

①良い瞬間を切り取りたいというモチベーションが高い
カメラが好きな友人は、良い写真が撮りたいという気持ちが強いと思う。そういう意識がありながら、かつ人よりたくさん撮影しているであろうので、写真が上手くなる。実際、私が撮ったものと並べてみると違いがよくわかる。私も「この瞬間この情景を切り取りたい」という思いで写真を撮る時があるけれど、結局適当である。まさにその1枚を撮る瞬間の意識からして全然違うなあと感じる。

②知り合いである
「写真には、カメラマンが感じている被写体の印象がうつる」という持論が、私にはある。
普段から関わりのある人は、私のことを知っている。そうすると、たとえば「今がいちばん楽しそうだな」とか、そういうのが初対面の人より分かると思うのだ。笑顔であるとか、そういう一般的で分かりやすいものだけでなく、私(被写体)にとっての良い瞬間とはどんなものか、そういうのが感覚的にわりと理解されているように思う。被写体にとってふさわしい瞬間に、撮り手の「こういう写真が撮りたい」という感覚があわさって、ベストショットを生み出すことがある。

①だけならプロのカメラマンに頼む方が腕前も高く「良い写真」というのが撮れるのだろうけど、②はプロに頼んだからといって実現するものではなく、被写体とカメラマンの関係性から成るオリジナルの価値を持つ。いくら写真のクオリティが高くても、前述のとおり、被写体である私が苦手意識丸出しで写ってしまって残念に感じることはよくある。友人が撮ってくれた写真は、技術的にどうかが分からなかったとしても間違いなく良いと思える、そういうものに出会う確率が高い。だから、もしも他人から見て その写真のどこがそんなに魅力的なのか理解できないとしても、私は、例で上に載せたような、友人が撮ってくれた写真に大満足なのである。

「プロじゃないから」という言葉には「そんなにハイクオリティなものは撮れない」など、消極的な言葉が続くことが多いが、むしろ「プロじゃない」という言葉を、気負わないために使ってほしい。プロじゃないから、毎回高い完成度をたたき出す必要はないのである。ぜひとも趣味で、気が向いたときに、好きなように撮っていただきたい。そういうリラックスした雰囲気の中で、たまに名作が生まれて、こうやって私のお気に入りになったり、見返した時に楽しい思い出がいっぱいあふれたりするのだ。楽しそうに写った自分の姿が、次の思い出を作る原動力になる。最高である。

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