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あれ、社会ってなんか、演劇っぽくね??

ちょっとこの話はもしかしたら理解してくれる人は少ないのではないかと思う。
これを思った時、自分はこんな事を考えるなんて変わっているなと思ったものだ。
だがその分、記憶に焼き付いて消えないある考えがある。見て欲しい。

あれは4年前の事だった。
当時僕は都内でタクシー運転手をしていた。何故22歳でそれを始めたかは置いておいて、やった仕事に慣れてきたなと実感したある日の出来事である。

お客様を下ろしたあと、中目黒・山手通りを入り品川方面へ車を進めている時、ふと赤信号で止まった。夏の暑い日であったので、運転席・助手席の窓を開けていて、左側にはちょうどスターバックス リザーブ ロースタリーが見えていた。

扉の前で、1人の女性、仮に店員のA子としよう。接客をしていて、そこへ1人のお客様と思われる女性が近付いてきた。客のB子としようか。
2人は同い年くらい、B子が席は空いていますかと聞くと、A子が「大丈夫ですよ、どうぞ!」と中へ促した。

僕はこの時、この光景に"違和感"を感じた。

そして、こう思った。
「どうして、敬語で話しているんだろう?」と。

いやそんなの当たり前だろ、仕事なんだから。
この一言に尽きる。敬語を使わない接客なんてどこの世界にあるんだ。そう思うだろう。
いや全く、そこには違和感は感じていない。
なんと言えばいいかわからないが、全く理解出来ないと思うが、とにかく思ったのは
「なんでこの人達は、友達じゃないんだろう?」
に近かった。

同年代くらいの女性イコール友達。分かり合える、だから敬語じゃない。
それになれないのは何でだ?と思った。

そこで車を走らせながら思ったのは、
そうか、今あの空間で接した2人は
「A子」と「B子」ではなく、
「客」と「店員」なのだ、と。

仮にこの2人が、プライベートで出会ったとしよう。アーティストのLIVEの会場、席が隣だった2人は、ふとした拍子に仲良くなる。SNSを交換する。出掛けるようになる。
その時は「A子」と「B子」ではないか。そこには気遣う敬語は存在しない。

社会の仕組みに気付いてしまった。
これは、壮大な"演劇"に近い物だと思った。

スターバックスで出会った2人は、「店員役のA子」と「客役のB子」だ。そこには付随した本名はあれど意味を成さない。前者の役柄の方がずっと大事なのである。後者を消してしまうくらいに。

演劇を見る時もそうではないだろうか。鬼役の青年の姿を、観客は"鬼"として見ている。その本人のプライベートで、どんな誠実さを持っていようと、どんな資格・免許を持っていようと、どんな友人・恋人・家庭環境を持っていようと、舞台上ではその持っているものに意味はなく、ただただひたすらに凶悪な"鬼"なのである。

社会という舞台は凄く広い。
そしてすごいのは、そこにいる役者全員がその配役を全うしている事だ。
もちろん、役に入りながらもプライベートの事を考える瞬間はある。だが、「私は子供がいて、叱らない主義だから、部下も叱りません」「私は家計をギリギリの所で攻めているので、お店の在庫発注もギリギリで攻めます」という役者は極めて少ないのではないだろうか?
それはプライベートを消していて、配役を全うしている証拠ではないだろうか。
1種の、多重人格では無いだろうか?

思い返してみると、これと近い違和感を幼少期に感じた事があった。
父の職場に、父が僕を連れていってくれた時の事である。
いつもは朗らかでふざけていて、笑いの絶えなかった父が、その空間においてはひとつの馬鹿話もせず、部下に正確な指示をしていて、とてもキリッとしていたのだ。
僕は思った、これは本当の父ではない。と。
家でもこうなってしまうのではないかと、とても不安に思った。
そんな日は今日これまで一度もなかった。

そしてこの違和感は、そこから3年後に初めて共感者がいる事を知った。
若林正恭先生の、「社会人大学 人見知り学部卒業見込」を読んでいる際に、これと似た内容の記述を見つけた。
そして、更にこの違和感について述べられている本がある事も知った。平野啓一郎先生の「ドーン」である。

ディヴィジュアリズム、分人主義というもので、1つの個人の中で、対人関係や場所ごとに異なる分人(ディヴ)を無意識に使い分けているというものだった。それは僕の考えとは違い、キャラを「演じる」というものとは違い、異なる仮面をいつ以下なる時でも無意識に付け替えているというものだ。人は場所や人ごとにその場に合わせた「自分」になってしまう。コミュケーションが増えれば増えるほどだ。使い分けている無限の分人(ディヴ)の集まりが「個人」であるという考え方で、これを知った時、初めて自分が凄いことに気付いたんだと実感した。

これからも、色々な良い思案悪い思案が浮かぶのだろう。HSPであるこの感性を大事に、明日も生きていこうと思う。

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