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どうか、幸せに暮らしてください。お客様。

あれはもう5年以上前の出来事である。
当時僕はタクシードライバーをしていて、まだ勤務開始から間もないバッチバチの新人ドライバーだった。都内の道なんてろくにわからない、常にナビとにらめっこしながらアクセルを踏む。そんな毎日。 

ようやっとタクシー運転手っていう仕事を理解してきた所だった。ある程度の自由は約束されているが、その分、お客様を乗せた分しか給料は貰えない。完全歩合給の世界。新人でも長距離のお客様と巡り合った時は、心の中でガッツポーズをしていた。

そう、あの日もそうだった。

三軒茶屋を走っていた時だった。キャロットタワーの所で右手を上げるお客様を視線の端に捉えた。車を停め、後部座席の扉を開いて乗せた。

「お台場までお願いします。高速乗ってください」
1人で乗車した若い女性は言った。
了承し、車を走らせた。
恐る恐る問うてみたが、ナビの使用も認めてくれた。これさえあれば例え高速道路だろうが知らない他県の土地だろうが怖くない。


15分後、汗ばむ両手でハンドルを握る僕はパニックに陥っていた。
山手トンネル内、地下に位置するその場所でのナビの使用は初めてだった。
回線不良による不具合で、ナビが完全に止まってしまっていた。自分が今どこを走っているかもわからない。
今思えば、この時にお客様に正直に状況を説明すれば幾らか状況は良くなったのかなとも思う。当時の僕はただただ焦っていた。

気づけば山手トンネルを抜けていた。
数分してナビが戻った時、自分が分岐点をひとつ間違って進んでいる事に気づいた。やってしまったと思ったのも束の間、後部座席から声がした。


「あれ、ここどこですか?」


状況をすべて説明して謝った。今すぐここから逃げ出してしまいたいほどの緊迫した空気。相手の目を見て謝れないことが悔やまれる。お客様に背中を向けてする接客はタクシードライバーくらいだろう。

「あー…そしたら次の羽田空港の所で高速乗りなおしてください」
お客様の声は少し落胆した様子だったが、不思議と怒りの声色では無かった。
すぐに言われた通りにし、最初に間違えた分岐も正規ルートで通過する事が出来た。
高速を降りてから下道を進み、アクアシティお台場の付近で信号待ちしていた時の事である。

「確か新人さんなんですよね?」
また後ろから声がし、僕は苦笑いで肯定する。バツが悪くて仕方がない。
この日の数週間前、同じように道を間違えたことでかなりお客様にお叱りを受けてしまった。
お前のようなろくに道もわからない奴がベテランと同じ車に乗るな。だったら最初からとめてない。外から見てもわかるように車にも研修生と書いておけと言われた。
また怒られるのかとビビっていた。早く信号よ青になってくれと祈った。まだアクセルを踏んでいながらの方が、運転に集中して叱責を聞き流せる。

「ごめんなさい。まだ新人で道を覚えるのに必死なのに、私のような複雑な道の客が乗ってしまって」
驚愕だった。
あまりに想像と違った言葉が発せられたので、僕は信号が青になったのを一瞬だけ忘れていた。慌ててブレーキから足を離した。
驚いている僕にお構いなしで、女性は続けた。
「私、三茶とお台場にマンション持ってるので何回もこの道タクシーで行き来してるんですよ」
「運転手さん若いですよね。なんでタクシーやってるんですか?」
「こういう仕事の失敗した時って、めっちゃお酒飲みたくなりません
?」

あっという間に目的地まで着いてしまった。
もちろん、道を間違ったのはこっちなのでメーターの全額を支払ってもらうわけにはいかない。いつもタクシーを利用するときは大体いくらかで支払ってもらった。降りるその時まで、そのお客様の仕草や口調は素敵だった。

しばらく、車を停めて考え込んでしまった。
あんな人間として素敵な人がこの世にいるのかと思った。
黄色信号で止まっただけで後部座席から怒号を飛ばしてくる方々が大半なのに。ここまで道を間違っても、私が悪いと謝れる人がいるのかと思った。
まだまだ捨てたもんじゃないな、と思った。
自腹で結局5000円以上支払う羽目になったが、とてもいい1日になったなと思った。心が楽しさで疼いた。


後から1つだけ疑問に思った。
お台場と三軒茶屋にマンションを持っているって、一体何の仕事をしている方なんだろう。
でも多分、その仕事で頑張ったからその暮らしができて、それで心に余裕が出来てるから人に優しくできるんだな。とも思った。

あのお客様は、死ぬまで疑いなく幸せだといいな。


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