「多様性」って言葉が生まれること自体おかしいのではないか

「多様性」
意味、ある集団において異なる性別、年齢、人種、経験、趣味嗜好が存在していて、その個性が認められる相対的な考え方。
ほかにもダイバーシティと言われる、さまざまな社会、民族的背景、異なる性別、性的指向を示す言葉もある。個人の違いを認め合い、尊重し合うこともこの言葉の意味の一つとなる。


早速だがメスを入れさせてもらう。
2人いたら2つの考え方があるなんて当り前じゃないか。
3人いたら3つ、4人いたら4つ。
人の数だけ考え方があるのはわかるじゃないか。
そしてそれが微々たる違いとか、根本的な違いがあるのもわかるじゃないか。
なのに何故、「多様性」なんて言葉が生まれて来てしまったのか。
「多様性」の、なんかある程度の枠からはみ出してる人も馬鹿にしませんよー!みたいな感じがすごく嫌だ。
枠なんて作るな。

これに付随するのが、マイノリティとマジョリティという言葉だ。
多数派と少数派で別れてしまうから、少数派が稀有な存在となる。
いつからか無意識にそれを”変”、”普通じゃない”として形作っていく。


どうして、人は人の違いを当たり前として認められないのだろう。
少数派を変と捉えるのだろう。

良く「多様性」として挙げられるのが性別の問題では無いだろうか。
「LGBTQ」の人間、例えば同性に好意を抱く人を見て、僕は思う。
これは、髪の長い人がタイプとか、背の小さい人が好きとかと一緒じゃないか。と。
別に僕は髪の長い人がタイプじゃないけど、髪の長い人がタイプの人を別に変とも思わないし、良いんじゃなーい勝手にすればー笑
くらいに思ってる。いい意味でどうでもいい。

ヴィーガンの人を見て、成程な。肉を食べないのか。
でも僕も牛乳飲めないしな…くらいに思ってる。いい意味でどうでもいい。

高層ビルで働くスーツの若い人を見て、その人がコンビニでサンドイッチを買う。
店員は40歳くらいで、多分アルバイトだ。
2人を見ても、お互い頑張って働いてるなーくらいに思ってる。
それぞれのやりたいことなんだろうなって。いい意味でどうでもいい。


どうやっても集団ってのは発生して、多数派少数派は必ず出て来てしまう。
僕はHSPで少数派の人間だからこう思えてるのかもしれない。
他人の痛みがわかるってのも結構難しいことだしな。


でもやっぱりどんな人間も素敵だしそのままでいいと思うし、○○だから嫌いとか、○○だから関わらないとかあるけどさ。
○○に入るのがどこまでなら許されるかなんて協議したらキリがないじゃん。遅刻魔はセーフだけど、犯罪者はアウト。でも犯罪者にもそうなるに至った背景があるわけで。。とかさ、これを考えるのは時間の無駄。


僕が大事にしているのは、その人のことが好きか嫌いか。ただそれだけ。
これは結構良いベースになるよ。当たり前にみんな違うもん。


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