§2-1 マッターホルンをひしぐ
主人公たちにとって、どこから「浪漫特急」の冒険を始めるかはたいして重要ではない。もともと風の向くまま気の向くままの旅だからだ。船が着いたのがリスボンならそれでよかったし、マニラからでも問題なかった。ただ、イプスウィッチ号は西からの風に吹かれてハンブルク港に到着した。
航海で賃金15ドルを得た。そのうち7ドルを使って、2台の自転車とほかもろもろを買った。自転車には「オットー」「オフェリア」と名を付けた。これにまたがって、さて、どこへ向かおうか。
主人公はローマに惹かれているのだが、アーバインはまっすぐパリに行きたいと言う。
「じゃんけんで決めようか」アーバインが提案した。
「じゃんけんだと、パリかローマの二者択一になる」
「そうだよ」
「それじゃ公平じゃない」
「?」
「ヨーロッパは広いんだよ。運任せで決めないか」
それで、アーバインは目を閉じてくるくると3回まわってから欧州地図にひとさし指を置いた。ロッテルダムだった。
「ロッテルダムだっ」
それぞれ2ポンドの重さしかないナップザックひとつを背負って二人はまずベルリンに向かって自転車をこぎだした。そこから西に変針して、村から村へのんびりと愛車を走らせ、15日後には、片側に「ドイツ」、反対側に「オランダ」と書かれたゲートにたどり着いた。
「パスポートを拝見」関吏が言った。「悪いことをしてどこかから逃げてきたんじゃないだろうね」
「そう見えますか」とびきりの笑顔をつくってパスポートを差し出した。
「いやいや、善良な旅行者に見えるよ。はい、オランダへようこそ」
オランダは小さい国だ。山もなく、アムステルダム、デン・ハーグをこぎ抜けてあっという間にロッテルダムに到着した。
「さあて、目的地に着いてしまったよ。これからどうする」
通りがかったホテルのロビーで、主人公はザックをおろし中から地図を取り出して次の目的地を探そうとした。すると、いいかげん半分、直感半分でスイスの南に目が行った。イタリアとの国境には「マッターホルン」の小さな文字が見えた。
「そうだ、マッタホルンを忘れちゃいけないな」
主人公は全寮制のローレンスビル校で過ごした大学予科時代、自分の部屋に、この山のそそり立つ頂の絵を掲げていた。部屋に入ってきた者はみんな圧倒され、釘付けになったものだ。
そして今、主人公が目を閉じると、主人公の前でおいでおいでと手招きをする光り輝く鹿の峰がまぶたに浮かんで現れた。まるで、ジャンヌダルクの前に顕現した剣と天使の幻影のように。
その威厳、その摩天ぶり、その峰に挑んだ人々の情熱と悲劇が、改めて主人公の心に火を灯した。そして、この山に登ること以外の案が、いかにつまらないかという考えに達した。
「悪名高き、人殺しの山よ」まぶたの裏で冷たくほほ笑む山に向かって叫んだ。
「おまえに登らいでおられまいか」
この山で遭難死した人の数が、仮にほかの山よりも多かったとして、それはマッターホルンに登るための理由にしかならない。
あの、ワイルドの声がこだまし始めた。
〈若さだけがたったひとつの価値なのだー〉
〈青春の日々はとても短い、とてもねー〉
「こんなめったにないチャンスを逃す手はないだろ」主人公はアーバインに言った。
「ディック。いきなり何のことを言っているんだ」
そうだった。マッターホルンの文字を見てから妄想モードに入っていた。
「マッターホルンだ。青春の値打ちを確かめることができる、美しくて愉快でロマンチックで、それがみんなオールインワンなすばらしい目的地だよ」
「パリはすぐそこなんだけどな」
「いいや、アーバイン。僕たちは今すぐドラゴンと戦わなくっちゃいけない。チャレンジブルな目的が見つかったなら即レスするのが若さってやつだよ」
「道具もないのに? 買いそろえるような金もないぜ」
「ああ確かに。だけど、モーゼがシナイ山に登ったときの装備はどんなもんだい。あるいは、ノアがアララト山から下るときは…」
マッターホルン登山がやばいならやばいだけ、アーバインには付き合ってもらわきゃならないと主人公は考えた。どういうふうに説得しようか考えがまとまる前に、アーバインから切り出した。
「なあ、ちょっといいか、ディック。マッターホルンは問題外だ。金もかかるし、危険だし、つまり問題外の外の外ってやつさ」
主人公はうなずかなかった。アーバインは続けた。
「だけどな、おまいさんが寮の部屋の壁にあの山の絵を貼っただろ。デカいやつ。あの絵を見たときから、なんてのかな、僕もマッターホルンに登ってみたくなっていたんだ」
主人公はアーバインに飛びついて強くハグした。アーバインもふくめてロビーにいた人がみんなたまげてこちらを見ているのも構わず、ほおとほおを3回も擦りつけちゃった。
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