「老兵は死なず」-知られざる余生を送るスターズ&ストライプ
YACHTING
97年9月号
「せいぜい、夏休みを楽しんでくださいネッ、読者のみなさん」と、のっけからスネたようなモノ言いをするのは、私がすでに、今年の夏季休暇を使い果たしてしまったからです。7月のはじめ、児童生徒学生諸君が夏休みになる前のボトムシーズンを狙って、せこく安いチケットを入手、ハワイに行ってきました。
そこでの見聞きをコネくり回して、「ヨット界斜め読み」に仕立てあげようというのが、今回の魂胆です。たぶん、テーマとしては、なぜか「余生」ということになるのかな。
つまり、ありていに言って、夏休み旅行感想文をこれから書くわけです。それで、どうして「ヨット界斜め読み」なのかというと…。なにも、先月号の綱島理友さんの「海へ行く」が、海へ行かずにショップでお買い物をした話題で、1回分をこなしちゃったのを読んで、「このテがあるか」とヒザを打ったからです。いや、ではありません。どうぞ綱島さん、これを読んでいませんように…(そりゃ、無理かな)
ヒザを打ったのは、ホノルルのダウンタウンにあるアロハタワーそばの中華料理屋「香港海鮮大酒楼」で上海焼きそばをほおばっていて、窓ごしに4本マストの大きな船が見え、それが海事博物館「ハワイ・マリタイム・センター」の併設だと気づいたときです。
「あそこへ行けばなんとかなるかもしれない」、いや、「あそこへ行って、なんとかしよう」……このコラムのネタに困っていた私は、安易にそう考えたのでした。
実は、前年にもハワイを訪れていた私は、ワイキキのはずれにあるアラワイ・ヨットハーバーへ散歩に出掛けました。係留してあるヨットを見学しながら、クラブハウスへ行けば、なにかいいことがあるのではと思っていたのですが、門が閉まっていました。だから、今年は日本を出発する前に、訪問予告のファクスか電話を入れておいて、アポ有り取材でネタを拾おうと思いついたのです。もちろん、思っただけ。「ハワイへはバカンスに行くんだもんな」という言い訳がすぐさま用意できて、けっして腰(指さえ)を上げることはなかったのです。
なもんで、ネタ用に頼り甲斐たっぷりに見える海事博物館へ、食後すぐ、おっとり刀で駆けつけた。いや、そのつもりが、刀さえ忘れていて、手持ち不如意で、7ドルちょいの入場料をプラスチックマネーで支払ったあげく、係の女性にメモ用のボールペンまで借りるという失態。おっと…。
もともとがカミさんに引っ張り出されて、2度もハワイ行きとなったせいで、各ショッピングセンターにある地場百貨店のリバティーハウスやら、いまはシェラトン系列となったロイヤル・ハワイアン・ホテルの位置付けやら、どちらかというと女ネタに詳しくなっていた私は、ここ海事博物館で、それらのルーツを知ることができました。
そうなると、自称・俗物教養主義者の私にとって、女ネタもキョウヨウにまで昇華され、満足したのでした(どうぞ、ヘーゲルさんが読んでませんように)
ワイキキビーチのド真ん中にあっ
て、ピンクに塗られた老舗ホテルとして、新婚旅行客ご用達のロイヤル・ハワイアンは、戦前というより大戦間、大西洋ではブルーリボンの奪取をめぐって欧米の汽船会社がスピード競争に明け暮れていた汽船全盛時と同時代に、ハワイを拠点にして、カリフォルニアやフィージー、ニュージーランドなどに豪華客船を就航させていたマトソン汽船会社の創業によるものだそう。
日本でいうと、私鉄会社が経営するホテル、いまだったら、JALやANAの経営するホテルと同じ構図ということになるのかな。ふふん。
マトソン汽船会社の傍らにある展示は、1849年にハインリッヒ・ハックフェルドという名の船長が、オカに上がって開いた雑貨店の再現。当時、船乗り向けに食料品からマストまでを扱った雑貨商「ハックフェルド&」は、やがて、リバティーハウスと名を変え、いまや、わが家の銀行口座からさえ金を吸い上げるチェーン百貨店に成長したのであった。日米貿易摩擦解消、バンザイ
以上は、観光と買い物天国という現代ハワイの主要産業の沿革の一端。汚れが目立ちにくいヒストリーですが、日本人にとって、忘れてならないのは、19世紀後半のハワイは、アメリカの捕鯨基地としての役割が主力産業であったことでしょう。この捕鯨産業の保護育成政策が、やがてペリーをして、わが国を開国させることになるのだから。
それから1世紀ちょい。立場というものは変わるもんだ。ちなみに、捕鯨関連のパネルには、日水の「焼肉フレーク ひげ鯨赤肉味付」の缶詰の現物展示があり、英語で《鯨肉は日本じゃ美食》という説明文が添えてあったな。
ついでに、開国に関しての脱線をいま少し。ついこの間、中国に返還された香港の歴史のスタートにあるアヘン戦争が、わが国幕末の体制一新の動きを加速させたのは、ご存じの通り。だけど、ハワイ王国のカラカウア王が、アメリカの圧力をハネのけて独立を維持するために、維新後の日本に嫁探しに来たことは、あまり知られていないかも。次王のリリウオカラニ女王でハワイ王国の独立は途切れることになるのだから、かなり、切羽詰まっていたはず。この際、アヘン商人ならぬ果物屋ドール一族が担った役割は、海事関連でないので、「歴史をライブで体験します」とパンフレットで謳うここの博物館では触れていません。
ま、その後の歴史を知るいまとなっては、カラカウア王の判断が正しかったのかどうか。シアヌークのジレンマのようなもんです。
悲鳴を上げたくなるような脱線ぶりだ。「ヨット界斜め読み」と、冒頭に掲げた「余生」ってどうなった?
さあ、エクスキューズを詰め込むぞ。
だから、唐突ですが、堀江謙一さんです。彼のパネルは、サイン入りで「ソロセイラーの物語」のコーナーにありました。ここをしばしば訪問するそうです。そして、その脇には、サンディエゴ生まれのデーン・ジョンソンという少年の写真が展示してあります。1975年に25フィートのヨットで太平洋を単独横断した最年少記録を称えてのものです。そのとき、15歳。
だいぶ前、このコラムで、高橋素晴くんの14歳が新記録なのはいいとして、過去の記録が見当らないと書いた覚えがあるけれど、彼がそうだったのかと合点した次第です。でも、本誌M発行人は、こうしたヨット・プロパー・ネタに関する私の誤解にも朱を入れようとしないイジワルな性格なので、読者は鵜呑みにしないでください。Mさんのそういういいかげんさが好きなんだけど…。おっと。
「余生」への展開が、逆の最年少記録に化けちゃった。
さて、博物館前の海に、横浜の氷川丸のように係留してあって、中華屋から私の目に飛び込んでくれ、ここまでの行数を稼いでくれたのが、「フォールズ・オブ・クライド」号。
1878年にスコットランドで建造された元貨物船で、1906年にタンカーに改造された船です。高さのそろった4本マストの帆船は、世界に唯一残るものだそうで、アメリカの文化資産に指定されているとか。1963年に廃船になるところを、募金キャンペーンで救われ、こうして余生を送っています。
見学中、なにやら作業をしているクルーに「また、走らせることができるの?」と尋ねたところ、「まさか」とあきれられてしまった。いや、この一文が書きたいがために聞いた質問だったのですが…。
余生じゃなくて、死んでたのか。ま、真珠湾の海底で「余生」を送るアリゾナよりは、私にとっては気が楽だけど。
びっくりしたのは、マウイ島に移って、観光パンフレットをパラパラと眺めていたときです。チャーターヨットがいくつも掲載されているなかに、やたらスマートなハル形状のボートが目に留まりました。それは、1987年のアメリカス・カップで、デニス・コナーが銀の水差しをオーストラリアから奪い返したときに乗った〈スターズ&ストライプ〉でした。「サンセットセイル」やら「ホエールウォッチング・セイル」やらに、1回2時間の乗船29ドル95セントで観光客向けにセールスしていました。ア杯引退後、映画に出演し、ラハイナ港とチャーターヨット会社にもらわれてきたそうです。「いますぐ、電話で予約を」と書かれてあったのを見て、もちろん、乗ってみたかったのだけれど、日程の都合が合わずにあきらめて、見るだけでもと、さっそく、ラハイナ港までレンタカーを走らせました。「まさか、機走できるように改造されちゃいまいな」などと余生の待遇を案じながら。けっきょく、見ることもできなかったんだけど。
なんだか、船って、防水は完璧なハードウエアのくせに、情緒やお涙は染み込みやすい体質のようです。
ダメ押しに、まったく海とは無関係だけど、もう一つ紹介させてください。
サイモン・メイル著『霊柩車に乗って』(ソニーマガジンズ)。主人公が、73年型キャデラックの霊柩車を中古で買って、ニューヨークからリオデジャネイロまでクルージングする《ジェット・コースター・ノヴェル》。霊柩車なら危険地帯でも、テキの方が敬遠してくれるだろうというのが主人公の目論みで、葬儀屋に売られたハズの霊柩車がこんな余生を送るハメになった…。この霊柩車、自分の晩年の姿には、〈スターズ&ストライプ〉より目を丸くしてるだろうな。この本、オススメ。
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