見出し画像

大人の領分④佳奈 (前編)

小説にはよく、出会ってまもなく「セックスしましょう」と言って主人公を誘う、他の男性にも同じことを言うだろう、他の男性にとっても同じように魅力的だろう、女の人がいる。大抵の場合、主人公はその女の人とセックスして、その女の人はまもなく、いなくなってしまう。

ナツメくんにセックスファンタジーについて質問したとき、返ってきたひと言は、一瞬でカナの男性観を固めてしまった。まるで、過冷却された水が衝撃で、たちまち氷になるような仕方で。あるいは、卵子が受精して、一気に受精卵になるみたいに。一瞬で。少し、そう、カナがナツメくんに抱いていた、幼くて素直な好意にとっては、残酷な、取り返しのつかない仕方で。

カナは積極的だ。例えば、ここで急に裸になってみたりする。

ここで?

ここで。

ナツメくんとカナは二人きりでバスを待っていた。がらんどうみたいに空いていた、平日の、ローカル動物園の帰り。行ってしまった、30分に1本のバス。長い長い夕暮れ。

それは積極的?

僕にはね。まさか。想像と現実って違うものだよ。うまく説明できないけど、とにかく、全然違う。

眉を曇らせて、カナはナツメくんに、なっちゃんは私のこと、好きなの? って訊いた。

してほしいんじゃないんだよ。そういうカナを想像すると、ぐっとくるんだ。もちろんカナのことは…。

ナツメくんは言い淀んだ。そして、カナの肩を抱いて、カナのこめかみにキスをして、髪の毛をちょっとだけ咥えて、ひっぱった。カナは笑って、ダメ、食べちゃダメ、って言って、二人の笑い声がやんだころ、ナツメくんはカナをまた、抱き寄せて、そっと囁いた。

カナはそんなこと、しちゃダメだよ。

カナは、もう話題を忘れていて、ナツメくんがなんの話をしているのか、すぐには、わからなかった。

ナツメくんとカナは、ろくなものも食べずにただ、部屋にこもってセックスするだけの二週間を過ごしたあと、しばらくして、同じタイミングで、お気に入りのパートナーが見つかって、別れた。カナが、言いにくいんだけど結構、本気で付き合う人、できるかも、って言ったら、ナツメくんも気まずそうに、実は僕もね…と、切り出した。ちょうどよかったね、でも寂しいな、って、最後のセックスをして、朝、大学まで一緒に、手を繋いで電車に乗って、笑顔で別れた。

それきりだった。

動物園に行った日は寒い日で、全然、シマウマが動かなかった。たぶん、秋の終わりか、春の始めだから、寒かったんだろう。つまり、知り合って間もない頃か、そうじゃなければ、別れる少し前だ。カナはナツメくんと、シマウマの檻の前のベンチに座って、全然動かないシマウマを、見ていた。きっと待ち合わせ前に食べようと思って買って、食べそこねたんだと思う、なんでかずっと持ち歩いていたクリームパンを、半分こして、ナツメくんが口移ししたがるから、カナは付き合って、親鳥と雛みたいだなって、思った。ナツメくんは思ったよりずっと優しくて、意外と背が高くて、そして賢い大学に通っている、大学二年生だった。

…カナは、あのとき自分で思っていたほどには、優しい人間じゃなかったんだと思う。カナは、自分で思っていたよりずっと、背伸びしていて、そして、ナツメくんと同じ賢い大学に通っている、大学三年生だった。ナツメくんの誕生日は忘れてしまったけど、ナツメくんの妹の誕生日と、カナの弟の誕生日が一緒だったから、3月6日はいまも、カナにとってはナツメくんの日だ。

下の名前もそういえば、忘れてしまった。

そんな、15年も前のことなのに、3月6日はカナにはずっと、ナツメくんの日のままなのだ。




佳奈はその夏目くんのこと、好きだったの?

ユキは、腿のうえに乗ったカナの頭を撫でながら、加熱式のたばこをふわふわと吸っていた。

さあ…。セックスしすぎて次の日、熱出たの、ナツメくんだけだったから、よく覚えてるだけなんだと思う。

すげえな。

うん。立てなくなるまでやってくれる子、ナツメくんだけだったなぁ。

それ、気持ちいいの?

うーん、爽快って感じ? 気分はよかったけど、気持ちよくはなかったかも。

ふーん。なんだ、あれだ、色々あったんだね。まあ、無いほうがおかしいか。

ユキは静かに煙を吐いた。カナはユキの太腿の、あったかい感じが好きだ。見上げると、ユキは気づいて、カナの頭をとん、とん、と、指先で柔らかく打った。

…。男の人って、色んな男の人と寝る女の人と、してみたくて、それで、すると、今度は殺したくなるんだな。

なに、急に。怖い怖い。

耐えられないんだなって思ったの。なんで主人公の前から、消したくなるのかなって。最近考えてて、いま、ふと、ね。主人公に感情移入してて、自分が消えちゃうのが嫌だから、消しちゃうんだろうな。それとも、主人公を消さずに主人公が消えることは表現できないから、相手を消すしかないのかな。どっちにしても主人公がいるから、物語が歪んじゃうんだ。物語の世界って、気づきにくいところから全体に歪みが広がって、結局その全体が、その物語になるんだな。文学部ってこういうとこでしか、役に立たないなぁ。

あー。俺には、それイイ大学アピールね、それ。俺ごめんね、もののみごとに、アホで。スイッチ入ると全然わかんないわ。一応、日本語だってくらいはわかるけど、組み立てが全くわからん。

わかんなくていいよ。ユキの理解力に問題があるわけじゃなくて、私が理解されるように、話してないだけなんだもん。いいでしょリラックスしてひとりごと、言うくらい。

でけぇひとりごとだな。まぎらわしいわ。

カナは笑った。ユキは楽しい。もういい年なのに定職につけていないユキ。同い年なのに、まるで赤ちゃんみたいなときと、おじいちゃんみたいなときがある、ユキ。台本が七五調になってることに気づかないユキ、「琴線」が読めないユキ、「錦を飾る」の意味がわからないユキ。カナが台本を音読してあげると、体の奥から出る、身長や体格からはちょっと想像のつかない、低い、よくとおる声で、たどたどしくカナの言葉を復唱して、すぐに全部、頭に入れてしまう、不思議なユキ。カナの話が全然わかってないのに、ユキにはカナのことがちゃんとわかっていて、だからとても楽しい。

それに、文学部って言ったの。大学名、出してないよ。学部は一緒でしょ。

なんつうか、人間の成分の問題ね。偏差値の開き考えると、違う学部で同じ大学の人の方が、一緒なとこ多いよ。違うんだ俺ね。イイ大学アピール、好きだよ。好き。賢い女の子とえっちなことするって、なんか、エロが深イイんだよね。自分の、暗いところが明るくなるかんじ? 佳奈はしかも、性格も明るくて根っからえっちで、それがまた、賢さとあいまって、すごくいいんだよね。…まあ、こういうのって本人には、それが普通で、わかんねえのかな。ね。

カナは微笑んだ。

賢さって、別に、勉強ができることじゃないでしょう。ほら、例えば、人の心が、わかること? も、まさに賢さだと思うし。私、ユキってすごく、賢いんだと思ってるよ。

ユキは、カナの頭を撫でていた手を背中に滑り込ませた。

私の気分とかね。ちゃんと、わかるでしょ。だから。

背筋の弱いところをなぞられて、カナの声は震えてしまった。そう。カナはこういうのが、好き。さっきから待ってた。

俺は賢くはないよ。ずる賢いの。

それって、賢くないの?

ううん。ずるいの。

カナはユキを見つめて、ユキはカナを見つめた。

俺は、カナの過去ってあんまり、嫉妬するとか、嫌がるとかいう、ネガティブな方向には、気にしないかな。たださ、…ずっと、気になってて、なに言ってんだおまえみたいな、心の狭いこと、なんでか今日になってやっと、確認していい? あのさ…今今で、色んな男と寝てないよね?

? …さあね。

ユキはなんとなく反応に迷っている様子を見せた。恋人っぽいほうがいいのかな。自分は自由なのに、変なの、と、カナは思った。

…な訳ないじゃん。仕事だってそれなりに忙しいし、ユキのこと、好きなんだから。

ユキは聞きたくない話を聞くような顔をして、たばこを口元に持っていった。恋人っぽいのも、嫌なのかな。男の人って、こういうとき、わかんないな。

旦那とは?

んー。子どもができたら、ごめんなさい、としか言えないなぁ。でも安心していいよ。想像つかないもん。人工授精のほうがまだ、自然。

不自然な沈黙。

…。気にしてないわけじゃないけど、もう、考えるのは、疲れたの。何が自然かなんて、わからないよ。ただ、素の自分が、いるだけ。きっとそれでいいんだろうなって、いまは思ってるの。

カナは、肩に置かれていたユキの手を取って、その骨ばった、妙に白くて爪のピンク色が綺麗な指を、一本一本確かめるように、順番に握った。ユキはバリスタのバイトもしていて、水仕事をしているはずなのに、手荒れがない。肌が強いユキの、白い全身には、たくさんのほくろが、激しい夕立の降り始めの瞬間のように、ぱらぱらと散らばっている。カナはそんなユキの体が、とても好きだ。

好きって、色々あって、すごく難しいな…。

佳奈の「好き」って複雑なんだと思うな。想像つかねーけど、普通より絶対、複雑だと思う。

ユキはたばこを吸い終わったみたいだった。カナの手を握り返して引き寄せると、甲から指へ唇を這わせて、ユキは呟いた。

夏目くんのふり、してみようか。「佳奈が壊れるまで、抱いてあげる」。 とか? うん。いいかも。似てる?

カナは考えた。ナツメくんのことを、カナは、かっこいいなぁ、って思ってた。でも、そういえば、ナツメくんをかっこいいなぁって、言っている人には、あんまり会わなかった。ナツメくんにいま、カナが会ったら…?  ううん、きっと、すれ違っても、わからない。どんな人だったんだか、覚えてるのは体をくっつけた時の、しっくり具合や、肌触りや、…ああ、たまに歯ぎしりをして寝ていたっけ…。

パンツがボクサーだったかトランクスだったかも思い出せないんだよ。そんな印象薄い、エスコートもリードも下手なハタチの男の子になんて、なってほしくないよ。ただのセックスバカだったんだと思うし。

今からセックスバカになる男にそれ言う?

ユキは加熱器をヘッドボードに置いて、ごめん吸っちゃったね、と言ってから、カナの頭を持ちあげて、キスをした。短く。軽く。カナは片腕で起き上がって、ユキはもう少し長く、カナにキスをした。

俺はともかくさ、佳奈がセックスに夢中になるのはね、見る価値あるんだよ。結構ね、こういう、とろん、としたとこ、見るの好きだったりね。俺、佳奈とするの、大好き。

キス? セックス?

んー。いまは、キス。

しばらくすると、ユキの唇からは、とろん、とした、不思議な味の唾液に、滲みとおるように、すうっと冷気が移ってきて、カナは、ユキのたばこがいつのまにかメンソールになっていることに、やっと気付いた。




〉》》〉後編  〉》》〉


今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。