黒澤明監督の『羅生門』を観た。
人間は弱いからうそをつく。わたしも弱いからうそをつく。
本当のことを「本当に本当のまま」言う人間などいるのだろうか。
事実とはおそらく、人を媒介する以上、ありのまま保存されることはない。映像や紙面はさることながら、人の言葉だって、都合よく切り取られたり色付けされたりして伝えられ、それを見聞きした者を媒介して、また違うモノへと作り替えられていく。幾度も伝達と編集を繰り返した「事実」は、原型をとどめているはずがないと考えるのが普通だという気がしてくる。
少なくとも人間のコミュニケーションとはそういうものだと、腹に据えておかねばならないと思わされる。脆く今にも崩れそうな土台の上に堪えて立ち、倒れてたまるかそっちには転ばぬと、ひたむきに真っ当であろうとすることが、わたしになんとか出来る「善」なのではないか。善は謙虚でなければ善ではないぞと、頭の後ろ辺りで誰かが言う。
この映画は、人に裏切られて傷ついている人、多すぎる情報に疲弊している人、そして自分の「善」を信じて疑わない人に、何らかの形で訴えかけてくるのではないだろうか。
救われるか、突き放されるか、冷や水を浴びせられるか。
わたしはというと、急所を突かれて悶絶しているところである。
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