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自分の感覚に微睡む

エネルギーの感じ分けや、それを言語化するのが好き。

今この瞬間にいるというだけで、一体どのくらいのことを繊細に感じているのだろうか。過去でもなく、未来でもなく、今しかないこの場所で、自分をさらけ出し、まるで裸を見られる時のような無防備さで生きている人間は、どのくらいいるだろうか。

私は子どもの頃から、人の持つ本質を見抜く鋭さがあった。
私の周りにいる大人たちはみんな、羊を被った狼で、表面上での付き合いと本心は全く乖離していて、みんな狼を内側に飼っていることを悟られないようにと必死で生きているのを見て、なぜだろうと疑問に思い、時に混乱していた。

私には、大人たちの内側に宿る狼も見えていたし、それだけではない美しさや大切に握りしめられた宝物があることも見えていた。だから、大人に「あの人はこういう人だよ」と教えられても、騙されることがなかったし、子どもではあったけれど、大人の悩みをよく聴いた。

その人の心を言語化することは私にとって容易く、まるで手にとるように、形式化された概念が頭に浮かんでは、それをただ言葉に起こしていくだけの作業だった。でもそれは、今思うと少し空しい。

そうした頭の中に浮かぶ概念を言語化するときに、私は外側に意識を使っていて、内側からの言葉ではないクセがある。それは、出来ることだけど、ハイな感覚に似ていて、内側からくる感覚で話すのとはまた違っている。

それがなぜだか今、「今この瞬間」にいて、内側から「さらけ出したい」と言う無防備さに対する欲求や衝動を感じている。第2チャクラの熱や、体の内側や皮膚の、自分が自分を暴いていく不確かさ、熱が第3、第4チャクラを通り抜け、喉元にくる感覚。

そしてそれを感覚のままに言語化している今。

誰に何を言われようと、自分が誰かのために自分のギフトを使おうと、外側のエネルギーに対して反応するよりもまず、私が私の気持ちを感じて大切にすることが1番でなくてはならない。

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