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現代人に必要なのは、目に見えないものを大事にする力

学校の成績もまあまあそれなりにはよかったり、仕事をしてもそこそこ以上の能力でやってきました。が、そうした競争的な世界において、私が何より違和感だったのは、目に見える形のものに執着しているあり方でした。

5科目が万遍なく点数がいいとか、成約率が良い、昇進がかかっている、とか。なんか、今書きながら、書く気がなくなっていくくらい、私からするとほんとにどうでもいい…。


もちろん社会で生きていくためにはお金も必要なんですが、お金がある=幸せではないことも知っているつもりです。
自分で稼いだお金ではないので、説得力があるのか分かりませんが、私の家はお金持ちではないけど、間違いなくお金に苦労したことがない家でした。
でも、蓋を開けてみれば家の中では毎日争いが絶えなかったし、私も成績を要求されたり、親や家系的な争いに巻き込まれたり、本当に心は枯れていました。精神的な病に罹らなかったのは、ただのラッキーだったと思います。

そんな「お金はあっても幸せではない」状況だったので、外面の物質世界ではない、内側の満たされる感覚とはなんなのか? 自然と「心」や「人としてのあり方」について、深く問を持つようになりました。こどもだった頃は、自分の中で違和感があったとしても、それを言語化したり、確かめたりする術を持ちませんでしたが、大人になって、色々と経験していく中で、自分の大事にしてきたものがなんだったのかが、少しわかってきたように思います。

昔の日本人は、目に見えることを通して目に見えないものを学んでいた

現代の教育の目的は、「同じ成果物の量産」です。
社会人になって必要とされるスキルをこなせる人間を、量産するために、学校教育が存在しています。私にはそのように感じます。
決まった科目の勉強しかせず、その限られた世界の中で、点数を競い、そのうち、その成績が将来を左右するように感じます。

よく考えてみれば、日本の伝統文化というものには、現在学校で教えられている科目のうち、せいぜい国語と数学くらいしか使われておらず、まあ現代で必要になってきている英語を含めたところで、たった3教科です。
他は?というと、机上での勉強ではなく、体験から学ばせることの方が多い文化だったと思うのです。

私は、どちらかというと、後者の方が好きな人間です。
勉強も嫌いではないし、どちらかといえば楽しめてしまうタイプです。
ですが、体験に勝る学びはないと思っています。

私がずっと続けてきていることは、ピアノと英語です。両方とも、勉強するとか、コンクールで優勝する、テストでいい点を取る、など、そうした競争的な世界に入ることなく続けてきました。
それは中途半端と言われるかもしれないし、反対に、競争出来るくらいの実力がある人たちに対して、私は心の底から尊敬しています。

ただ、私が今言いたいのは、体験は一番の学びだ、ということです。日本人が長けているのはここだと思います。
最近習い始めて、ずっと続けている習い事があります。古武術です。

合気道か弓道をやってみたい、と思っていた矢先、それより先に出会ったのが古武術でした。たった一度、体験しただけで「すごい」と思いました。

目に見える形としては、「一つの武術」として捉えられます。そして武術を体得するために、必要な道具や環境もあります。

日本人はなぜ畳で寝るのでしょう。なぜ縁を踏んではいけないのでしょう。
なぜ毎日布団を押し入れにしまっていたのでしょう。全部意味があります。ただの作法ではありません。

立ち方座り方ひとつ とってみても、ひとつひとつの動作に意味があります。
「こういう型なんだね」と、目に見えることだけで終わらせてしまっては、大事なことを全て見落としてしまいます。どんな意図がそこにあるのか理解するには、やっぱり目に見えないことに目を向けることが大切だと思うのです。

心の眼で視る

この「目に見えないものを大切にする」という精神は、何事においてもとても大切なことだと思います。

仕事においても、数字を追ってしまうのも分かるし、会社である以上、利益追求がプライオリティの高い位置に来るのも当然です。ですが、自分が執着しているという心に目を向けている人がどのくらいいるでしょうか。何が自分にとって、相手にとって、本当に幸せなのか。はたまた、本当の幸せとはなんなのか。そうしたことに目を向けるのを後回しにして、目の前の仕事に没頭している人たちを、私はたくさんみてきました。

学校で、数式の解き方や歴史の年表を教えてもらいます。そのうち、進路を決める時がやってきて、数ある学校や会社の中から自分の進みたいと思うものを選びます。ですが、限られた選択肢からしか選ばせてもらえない社会の構図であると気が付く学生はいるでしょうか。与えられた選択肢以外の道を考える学生や、そうした学生をサポートする人はいるでしょうか。勉強以外の、友人関係という大切な人間関係を、自分の心をどう取り扱ったらいいか教えてもらったことはあるでしょうか。

現代の人たちは、目に見えることしか信じず、目に見えるものに執着し、本当に大切にするべき心が失われてきているが故に、昔の人たちが心の眼で視えていたものが、視えなくなってきてしまっているのではないでしょうか。

上っ面で誰かを思いやるような言動をしていても、私にはそれが上っ面だと分かります。どれだけお客さんが集まっていたとしても、自分自身に対して正直で真摯に向き合っていない人は、すぐに分かります。見た目や、集客のうまさでは分からない領域です。心の眼で視るのです。
なぜ分かるのか。それは、日頃から心の眼を自分自身に対して使っているからです。
「私は今正直ですか」
「私は今、心に嘘なく人を助けたいと思っていますか」
「私には今、黒い心があるでしょうか。どのように真っ白な心でいることができますか」
このようにして、毎日毎日、いつもいつも自分に対して心の眼を向けています。自分に厳しくするためではなく、自分を許し、他人を許し、互いに「自分」という存在の本質に戻っていくためにしていることです。

日本に生まれたというのは、本当にすごいことだと思います。そして、その心を少しでも学べる環境にあることも、とてもありがたいことだと思います。

こうして偉そうに書いていますが、実は最近、私にもやらかしたことがあります。
古武術の昇級試験を受けたとき、「ちゃんと家で1人稽古していますか?」というコメントをいただきました。家で稽古していないことがバレバレでした。型だけみれば、ちゃんと型なのです。それでも、日頃の行いというのは、分かる人には分かるもの。改めていこうと思いました。

心、心の眼を育むのに必要なこと

心を育む方法や、心の眼を養う方法も、たくさんあります。
でも、共通しているのは、内観することが必要だということだと思います。
自分と正直に向き合う時間を作ることです。
日常、忙殺されている中では、なかなか自分を深く知り、本質が何であるのかを知ることは難しいです。
丁寧に自分を内観しながら、本質に1歩ずつ近づいていく。そうしたことの積み重ねが、自分を幸せや平和という感覚に連れて行ってくれるのだと思います。


ヒーリングも内観するひとつの手段です。
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