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期待という呪い

「私らってこれまで親の期待に沿って生きてきたから、何したいかとかどこ行きたいかとか正直分からんくない?」

高校の時、進路を考えながら友人とこんな話をしていた。
正直、私達は経済的にも環境的にもとても恵まれた学生生活だった。
でも親には決して言えないこんな気持ちを抱えていた。

救いだったのは、この気持ちを共有できる友達がいたことだった。


お久しぶりのnoteなのに、とんでもなく恐ろしいタイトルを付けてしまった。
読んだら呪われる、呪いの記事ではないのでご安心を。

先日、Voicy限定配信エピソード夫婦雑談にて
「新人教育の悩みと子育て」について夫と語り合った。(※今は有料エピソードになってますがご興味ある方是非に)


私はちゃんと会社員をしたことがないので、新人教育もあまり経験がない。
でも夫の新人教育話を聞いていると、、

え!?それって子育てとおんなじやん!!
え!!それも子育て!!
ちょっと、え!?似たような感情、子育ての中で何度も何度も感じてきたぞ!!!!!

と、結婚してから1番と言っても過言ではないくらいに夫と意気投合した。
ちなみに言っておくが、12年間の子育てにおいてこんなに意気投合できたことはない。

夫の面子の為に言っておくと、こんなに意気投合できるほど子育てに時間と労力を割く時間が夫にはなかった。
そう、仕方ない仕方ない。仕方がないの。
と、自分で自分に言い聞かせてみたり…

子育ては今でも試行錯誤中ではあるが、色々とやらかしてくれる子どもたちのおかげで私のメンタルはどんどんと強くなってきているのは紛れもない事実。
だから、子育て領域に関しては、夫には悪いが、私がかなり先を走らせてもらってる。

新人教育の悩みも
「あ〜それ、息子が3歳の時に感じたわ〜」
「あ〜〜それな、それ幼稚園の時初めて習い事させた時にそんな気持ちなったわ〜」
と先輩風をビュンビュンに吹かせてマウントをとらせていただいている。
うざい、こんなやつ絶対にうざい。一番うざい。他の人にはこんなことしないけどね、夫だからね、夫だからよ。


そんなくだらないやりとりを経て、今回改めて考えたのは
「期待する気持ち」の厄介さだ。

「期待」と聞くととっても前向きな言葉のように思えるし期待されることを嬉しく感じる人ももちろんいると思う。
でも、その「期待」の後ろには「自分が思うように相手をコントロールしたい」という気持ちが隠れてはいないだろうか。

せっかくサッカーを習い始めたのだから、上手になって欲しい。月謝も安くないんだから、園庭で蝶々じゃなくてボールを追いかけて欲しい。切実である。
こんな期待の裏側にある本音を子ども達は、いとも簡単に見抜いてくる。
私も幾度となくそんな期待を抱き、毎度見抜かれてきた。

「期待」という一見美しい言葉に包んで、相手をコントロールしようとしていた自分にも嫌気がさしてきた。


私自身は、良くも悪くも期待され続けた幼少期だった。
一人娘で一人孫。
周りの大人達の全てを一心に背負っているな、と幼いながらに感じていた。

戦争を経験している祖父母は、自分達が小さい頃に叶えられなかったこと、手に入れられなかった物や経験を私に与えてくれた。
そして、たくさん期待をしてくれた。
いろいろな経験をして成長していく私のことを誇りに思ってくれていることも痛いほどに感じていた。
それが祖父母なりの愛し方だった。ありがたかった。
でもその期待が嬉しい時もしんどい時もあった。

3歳から中3まで習っていたエレクトーン。
私は別に音楽関係の仕事に就きたいわけでも、先生になりたい訳でもなかったのだが、さすがにそこまで長く続けているとだんだんとレベルも上がっていく。別に受けたくもないグレード試験を受けたり、その為に泣きながらトレーニングをしたりした。今思えば、本当に何のために?という感じだ。
親からも「辞めたいなら辞めたらいい」と言われていた。
なのにずっと辞められなかった。毎週土曜日にはストレスでお腹を痛めながらレッスンに通っていた。今でも土曜の夕方テレビからミュージックフェアの音楽が流れると気持ちが悪くなる。どんだけトラウマを抱えてるのか…笑
そんなに嫌だったのに、何で辞められなかったのか?と考える。

きっと、周りの大人が「期待している」と思っていたからだと思う。
これだけお金と時間をかけて長い間習わせてもらっているエレクトーン。
期待に応えないといけない、と。

期待に応えるとは具体的に何なのか?なんて当時は考えられなかった。ただただ辞めずに続けること、レベルを上げて試験を受けること、発表会で賞をとる事が期待に応え続けることなのだと信じて続けていたのかもしれない。

ついにエレクトーンを辞めた時、祖母から
「長いこと習い続けて、高いエレクトーンも買ってもらったのに、なんにもならんかったな」
と言われた。
(祖母は超絶毒舌キャラなのでこれが通常運転、思うことは色々あるが大好きです)

ああ、期待に応えられなかったのだ、とその言葉が胸に突き刺さった。今でもその時のことを思うとチクリと胸が痛む。

だからと言って祖母のことを責めるつもりもない。責めたところで何も変わらないし。それが祖母の正義なのだと思うから。
そして、何より自分が親になってから祖母の気持ちが痛いほどに分かってしまう。
流石に子ども達に直接パワーワードをぶん投げることはしないけど、そんな想いが頭をよぎることなんて何万回もあった。
ドラムを買ったのに、数年で辞めてしまった息子…。溜まりゆく進研ゼミ。良かれと思って買ったのに読まれない本達…。

こうなって欲しい!という親の期待は時に子どもの視野を世界を狭めてしまうこともある。

「期待」の反対語は「信頼」と言われることもあるらしい。
一見反対語には思えないかもしれなけれど、自分の幼少期の思い出や子育ての経験を思い返すと、まさにその通り。

こうなって欲しい!という期待は
こうなって欲しくはない、こうなられては困る!という意味にもなり
本人のことを本当の意味で信頼していない事にも繋がるのだ。

この子なら、どんなことがあったって大丈夫!
そう思えることが本当の「信頼」なのだろう。

よく育児書などで見る類の言葉だ。
簡単に一言で書いてあるが、これがどれだけ難しく大変なことか…。
この気持ち、親である方なら分かってくれるのではないだろうか。

我が子を信じること。
私にとってはそれがフルマラソンを走るよりも難しいことだった。(フルマラソン走ったことないけど)
手を出す、脱走する、車道に平気で走り出す…
特性があることも関係しているけれど
悪いけど、こんな子をどうやって信頼しろと?信頼してたら死ぬぞ?と何度も思ってきた。

でも、どうやらそれはそんな小手先の話ではなかったのだ。
我が子を、他者を信頼するということは
自分を信頼出来ていないと、相手が誰であろうが信頼出来ないことなのだと分かった。

私は大丈夫、だからあなたも大丈夫。
そう思えることが大切なのだ。こんなことどこでも学ばなかった。
その方法だって誰も教えてくれなかった。

私は大丈夫。
自分を信頼すること…。
あれ、ちょっと待て、これってフルマラソン走るより難しいやつ?!
(だからフルマラソンは走ったことがない)

大変なことになった。
①自分を信頼する
②子どもを信頼する
フルマラソン✖️2回走ることになった。これは大変だ。


自分を信頼するとは、結局自分の1つ1つの選択を大切にそれを信じていくことなのではないかと今の私は思っている。

これがしたい、したくない。
したくないけど、しないといけない。
したくないけど、しよう。

日々のタスクにまみれるのではなく、自分の思考や感情に敏感になり、自分から「選んでる」感覚を取り戻すこと。
そして1番大切なのは「あなたなら大丈夫」と条件なしで信頼してくれる思ってもらえる人に出会うこと。

その信頼してくれる人は親子関係でいうところの
親かもしれないし
上司部下関係の上司かもしれない。
そんな信頼関係を築けるのが理想だ?

マラソンで一歩一歩ゴールに一歩を進めるように少しずつ少しずつ自分への信頼を貯めていけば、子どものこともあなたなら大丈夫。
と無条件に思えるんじゃなかろうか。

私は息子を遊具も何もない原っぱに解き放って、私から遠くに離れて走っていく後ろ姿を見ている時にふと「この子なら大丈夫か」と思えた瞬間があった。
きっとこの瞬間のことは一生忘れないと思う。
そんなふうに思えるか、思えないか、で親子関係も人間関係も変わっていくのではないだろうか。

この「期待」類のことを考えるといつも高校時代の友人との会話を思い出すのだ。



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