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なぜ、香港〜民主主義の防波堤編

こんにちは、こんぶです。
前回に引き続き、私が「香港」を卒論に選んだ理由を少し政治学的な観点から述べたいと思います。前回は私の個人的な体験や感情がメインでしたが、今回は少し実利的な意義を私なりに考えた過程をお伝えできれば、と思います。

今回は、第二の点、「民主主義の防波堤として香港」ということですが、これがどういうことかについて説明していきたいと思います。

きっかけは、ある朝、日経電子版を読んでいて思ったことです。それは、「台湾は、こんなにフォーカスされていて、中国陣営から保護されるように配慮されているのに、香港の民主派が排除されつつある現実に対して、既に『あきらめモード』が漂っていないか」ということです。もはや、新聞の小さな一角にしか現れない「香港の民主派排除」のニュース。最近では中国共産党に批判的な民主派の代表的な香港紙、アップルデイリーが廃刊になりましたね。

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確かに、今後香港が中国の支配から逃れ、民主主義陣営の一員として返り咲くことは難しいかもしれません。しかし、私が主張したい「民主主義の防波堤」としての役割は、現実をそのまま表した「防波堤」ではなく、思想レベルでの役割です。
これだけ、中国化が進行し表現の自由さえ危うい状況の香港ですが、それでも声をあげようという意志が存在している。その事実こそが、民主主義に確固たる自信を与え、陣営の結束を強める希望となりうるのではないか、と私は思います。

正直、私は少し前まで、「本当に民主主義って優れた政治体制と言えるのだろうか?」と疑問に思っていました。
現在、中国やロシア、イスラーム過激組織といった民主主義と対立するイデオロギーが全世界で台頭し、世界の均衡は崩れつつあります。また新型コロナウイルスのパンデミックへの対応力において、イスラエルなどの軍事国家が日本という民主主義国家より、迅速で優れていたことも私の疑問を加速させました。

しかし、香港に目を向けた時、絶望的な状況でも闘う意志を捨てない、その小さな準国家を見た時、私が当たり前に享受していたものは、当たり前に得ることのできない特権であったことに気がつきました。

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丸山眞男は、「である」ことと「する」ことは違うと主張しましたが、民主主義でも同じことが言えます。(これはこの間ゼミの先生から学びました)
私は、あまりにも長い間民主主義「である」ことに慣れすぎてしまって、民主主義を「する」方法に目を向けてこなかった様です。
そんな私にとって、必死に民主主義を「する」ための行動に走っている香港は、彼らの状況が絶望的であるからこそ、より一層輝いて見えます。その意味で香港は、私の思想を民主主義に留めてくれた「防波堤」なのです。

最後まで読んでくださった方、ありがとうございました☺️
次で、香港に関する記事は最後になると思いますので、是非お付き合いいただけると幸いです。


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