すぐに忘れてしまうけどずっとすきなこと
現代文の授業、というよりも教室にいる誰かを無作為に指名して、その人から出る言葉を聞くことがすきだった。つまりは、作品を通じて思い思いに感じたことをどんなに拙い言葉でも、誰かや目的に意図的に沿った言葉でも、なんであれその人が表出した言葉を聞き取って感じて、一旦自分の中に落とし込んでから嫌、とかすきを産んだり排泄したりすることがすきだった
だから私はおしゃべりがすきなのだと思ったし、そういえばすぐに忘れてしまうけれど、なにか同じものを誰かとみて、それぞれの視点を通じて感じたことを表しあって、異なる部分や違う部分、そういうものをさらけ出しあってわらったり怒ったり慈しむことがすきなのだとも思った。
人が好きで、人という多様性がすきで、存在しているというだけで意味とか価値とか勝手に図られてしまうけれど、どうしても捨てられないこだわりの部分だったり、すきという感情に惑わされて許してしまう気持ちだったりそういうほどけた人の緩やかないとおしさを私はちゃんと慈しんでいきたいし、もっと許して、もっと認め合って、だけど自分の許せないは淡々と、ただ黙々と続けて、認め合いと孤高の感情、揺れる機微と不動の価値観を積み重ねてそれが層となり自分の人生となれたらどんなにそれは汚くて美しくて、あたたかくて冷たくて、重たくて、いとおしいかと思った。これだから人生やめらんねーし、人の営みがすきなんだよ。ふーん、おもしろい人生!
揺れる人との関係
揺れてる。以前までは永遠を求めていたのに、揺れてる。一期一会があってもいいのかなって、揺れてる。あの時永遠に続くと思っていたゆるやかでおだやかな時間は幻想のように短かったことに数年たって気づく。例えば、テスト期間の時だけ一緒に帰れるからってついつい長話しちゃった放課後、画材のにおいで充満した美術室、秋晴れに飛ばすつもりで遠くに音を放ったトランペット、学校からの帰り道、ほどける休み時間。
ずっと関係が続くと思っていた友人はSNSを通じてのみ存在がわかるようになってしまっていて、またSNSを通じて存在確認をするだけで満足してしまっている自分に驚く。別に会いたいって思ってないんだ。そっか。ならば今の会いたいに踊りたい、つい溺れちゃうけど。
私は定期的に会わなければ、自分と相手の乖離が膨らんで、久しぶりに会った場合どんどん空気や会話がこじれて時間の経過を感じてしまうむなしさのみが残ることになってしまうことへの恐怖が強くて、しばらく会っていない人とは一生会いたくないなと思っていた。理想。だけど、前述のなにかを共有してそれを通じて互いをさらけ出し合うことがすきであることから、変わってしまったことはむしろどのように変わったのか、どんな経験や色、物、街、人があなたを変容させたのか聞くだけでたのしいのかもしれないなと思った。自分との乖離、自分と近しい価値観を持つ人が変わることはさみしいことだけれど、きっと私はそれを感じるたびにやっぱり泣いたり嘆いたりしちゃうんだけど、だけどそれも慈しんじゃえばいいんだ。この辺は最近よんだ「ひらいて」や聴いた「46憶年LOVE」に感化されているかも。秋晴れと共になんだか私の心もかろやかに晴れていて、透いた感情は澄んだ心へ浄化させゆく。寒くなってきて冷たい風は私を早足にさせるけれど、人と一緒に歩くときはゆっくりと一歩一歩前に出していて、寒い季節は本当に独りと二人の対比が濃くなるものだよなと思う。
いとおしいを慈しんでいきたいな。ゆっくり育てて、真心こめて愛して。
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