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ZARAから紐解く社会の闇

最近ZARAの服って流行っていますよね。インスタとかでも「ZARAの服着回し」みたいな投稿をよく目にするし、私もお店を見かけたら絶対寄っちゃうしね。実際に2,3着持ってます!

ZARAの服ってなんでこんなに可愛いんでしょうね!他の洋服屋さんでは見ないようなちょっと個性的なデザインの服ですよね。自分には絶対に似合わないだろうなぁていう服とかちょっとこれは露出多すぎるなって服が8割くらいで、残りの2割は「もしかしたら上手く着こなせるのでは!?」って思って欲しくなるような服たち。私の体感ではこんな印象です。

店頭に並んでいる8割の服は初めから買わないことが確率的に分かっているのに、そういった服たちをみているだけで何だかワクワクしてきてしまいます。

「今の自分には無理だけど、いつかこんな服着こなせるカッコよい女性になりたい!」だとか、「この服だったら絶対周りとかぶらないし、お洒落感出るよな」とか。こんな空想を膨らませながら店内を見ているだけで楽しいのです。

そしてこれが今女の子たちの間でZARAが流行っている理由であり、現代社会の特徴の一部を象徴しているような気がします。(急に壮大w)

ZARAの服の最大の特徴はその奇抜的なデザインであり、それが最大の魅力でもあります。世の女の子たちは、「周りとちょっと差をつけたい!」とか「みんなが着ているファッションから一線を画したい!」とか、そういった気持ちがあって、個性的な服を求めてZARAにやってくるのではないでしょうか。

なんで急にみんな個性を求めるようになったのでしょうか?

それは日本社会に渦巻いている「画一化」「均一化」「マニュアル化」等々の無個性化の反動なのではないかと思います。

学校でも職場でも日本人はとにかく目立たぬように、みんなと同じようにしようと必死です。だって出る杭は打たれると言いますし、変に目立つと社会的な人権が無くなります。暗黙の了解で作られた社会的な「マニュアル」に従って、いわゆる「普通の人」になろうと必死です。大学の入学式は黒のスーツだ!とか外出時はマスクをつけろ、でもアイシールドはさすがに浮くぞ!とかね。

無意識のうちに無個性化を強いられている私たちは、その反動で無個性化の侵略範囲外で個性を発揮したくなるのではないでしょうか?その代表例がファッションであるのだと私は思います。

ただ皮肉なことに個性を発揮する手段が無個性化してきていると感じることがあります。先ほどからさんざん触れてきたZARAの服なんかがその例です。前述の通り私はZARAによく行くので、たまに町中で「あっ、あの服ZARAだ!」と気付いてしまうことが結構あります。しかも個性的な服なんだけど「それ着ている人さっきも見た」なんてこともちらほら。

「個性を求める」こと自体、あるいはその手段がすでに無個性化してきているのでしょう。(人のことは言えませんが)

私たちはどこまで行っても無個性化の呪縛から逃れられないのでしょうか?
きっと来年、私はみんなと同じようなリクルートスーツに染め直した黒髪で就活に励むのでしょうね、、。

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