ドライブ・マイ・カー みんなと違うラストの解釈
ハロー、マオです。
遅ればせながらドライブマイカーを観てきました。
ネタバレ含みますのでご注意ください。
上の画像は感想、解釈、考察を1枚にまとめたものです。クリックして見てね。
夏目漱石『心』みたいな表層テーマ
子供を事故や流産で失い、親を自然災害で失い、愛する者に病で先立たれ、誰もが誰かを殺してしまったような罪の意識を背負う……
残された者はどう折り合えばいい?
これが本作、表向きのテーマです。
裏のテーマは別にあります。
太宰治『人間失格』みたいな真のテーマ
見ないようにしている自分の本心が歪んだ形で現実に発露するのが本作。
ツラさ、諦観から逃げず、自分の心に気づいてあげるには一体どうすればいいのか。
キャラクターを通して、自分も自分自身という人生に向き合わされる、半ば強制的なのにそれが押しつけがましくなく、心地よく誘導されていく作品です。
さて、そんな抽象的で伝えにくく、下手したら「前を向いて生きていこうぜ」みたいなやっssssっすい使い古したメッセージに堕ちて後観感ゼロになってしまいそうなテーマを、本作品はどのように昇華したのでしょうか。
昨今の日本ドラマとは一線を画す〝わかりやすさ〟
テレビドラマでの俳優さんの演技って漫画的ですよね、焦り方、悲しみ方、落ち込み方。大事な誰かが死ねばとにかく叫んで大人でも大泣き。
ほんとはそんな日本人ほとんどいないと作り手も視聴者も理解していますが、「記号」としての演技を用いてどんなリテラシーの人でもわかるように表現しているのがテレビドラマだと思います。
それは俳優さんの演技だけでなく、セットなどの舞台も。
お金持ちが住んでいる家は整然としていて白基調、コーディネーターが生けた花が飾ってあって「絶対に人が住んでない、このお芝居のための舞台だ」とはっきり分かってしまいます。
演出も美男美女のアップと説明するためのアングルばっかり。
ただ、仕事で疲れて帰ってきて何にも考えたくない脳用のエンタメとしてはテレビドラマ的つくりは最適なのかもしれません。
「ドライブ・マイ・カー」も主題が陳腐に落ちやすいし、抽象的なため、きちんと観客の心に刺すために分かりやすい表現を多用しています(例は上の画像で確認してください)
しかし、ドラマ的な演出をするといかにも表面的で安い作品になってしまう。
そのために本作は「徹底的に分かりやすく、しかし格別美しく」というコンセプトを掲げ、芸術性をもってテーマを深く抉った作品であると思います。
芸術性を追求し、崇高だけど難解になってしまった作品は多々あれど、芸術性を〝手段〟として観客を主軸からブレさせない本作はまさに傑作といって過言無しです。
劇中劇で本心を語る
また、作中出てくる「前世がナツメウナギのストーカー女子高生」と、「ワーニャおじさん」が、一貫してキャラクターの感情を見透かしてくれます。
特に、空き巣の左目を刺して殺したのに世界に何の変化もないことを不気味に思う女子高生が、唯一変化した防犯カメラに向かって「私が殺した!」と訴える逸話が、浮気をしても愛ゆえに気づかぬフリをする主人公・家福への悲痛な訴えとなっているところは本当に見事です。
実際に浮気を薄情して、こんなに辛かったんだと吐露するような展開よりも、痛烈に訴えかけるものがありました。
「ワーニャおじさん」という古典が作品の『本音』として一貫して機能しているのもすごい! 非常に素晴らしい脚本でした。
通説とは違うラストの解釈
ネットでは、コーディネーターの夫妻と主人公が韓国に渡って公演を続け、23歳の女性もドライバーとして着いて行った。という解釈が通説となっているような印象でした。
しかし私は、主人公・家福は日本に残り、ドライバー・渡利だけ韓国人コーディネーターに着いて日本を出た印象を受けました。
おおきな理由は、韓国のシーンで助手席に家福が乗っていなかったこと。
ドライバーとして韓国に着いて行ったにしては、持ち主不在で運転手だけが愛車を乗り回すのには違和感を覚えます。
渡利は家福より愛車・サーブ譲り受け、まさしく「ドライブ〝マイ〟カー」になったのだと私はとらえています。
今は 彼女の好きなもの=韓国人夫婦の愛犬 を乗せて、
自分の父親の面影を追う土地=広島、島根 を離れ、
自分の人生としてコロナ禍を生きているんだなと私は感じました。
予備知識なしでもたのしめます。
村上春樹の原作も、作中扱われる劇『ワーニャおじさん』も、韓国語も韓国手話も、濱口監督の他の作品も、俳優や背景なにも知らなくてもたのしめる映画です。
むしろ私は予告編で流れる「妻の死」すら知らなかったのでネタバレゼロで超楽しめました。私が一番得した!笑
おすすめの作品です。
またね!
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