〈男性性〉としての「虎」ージェンダーから読み解く「山月記」

 中島敦の短編小説「山月記」は、高校の現代文教科書における定番教材となっている。若くして科挙に合格しながら職を辞して、詩人を目指しながら、他者と切磋琢磨して努力することを放棄した末に、虎となり果てた李徴の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」は、高校生にとって、心に「刺さる」物語であることが定番教材となった理由であるだろうが、しかし、現代のジェンダー論を通して「山月記」を見た場合に、高いプライドや強烈な上昇志向、他者の賞賛を浴びたいと願う名誉欲、他者を避けようとする自閉的な傾向、周囲と衝突し円滑な社会生活を送ることができないコミュニケーション能力の欠如など、李徴の特徴を〈男性性〉として捉えることができることに気づく。李徴が変身を遂げる「虎」が象徴するものとは、つまり〈男性性〉なのではないだろうか。

 このように「山月記」をジェンダー論の枠組みで読み解くことには、いくつかの意義がある。一つは、「山月記」というテクストを、高校生の生徒にとって、より現実の社会問題に接続しやすくなることだ。現代の日本社会には今もジェンダーに関わる問題が種々存在し、女性が男性中心の社会のあり方に社会進出を阻まれている例や、男性が〈男らしさ〉の呪縛にとらわれている場合など、数多くの問題が存在する。「山月記」をジェンダー論的に読み解くことは、そうした男性性にとらわれた社会のあり方を相対化する視点をもたらすだろう。

 しかし、ジェンダー論の枠組みを導入することは、一方で、教室から女子生徒を排除することに繋がる可能性もある。従来、「山月記」は女子生徒もまた、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」に縛られた李徴のあり方に感情移入して感動し、人はいかに生きるべきかということについて考えるきっかけにしてきた。「山月記」は、男女関係なく、普遍的な文学作品として受け止められてきたのであり、ジェンダー論を導入することは、この小説の受けてから女子生徒を排除することに繋がるのではないか。そのような批判を想定することができる。

 しかし、そもそも高校の国語教科書には、森鴎外「舞姫」、夏目漱石「こころ」、中島敦「山月記」、芥川龍之介「羅生門」など、エリート男性の苦悩を題材としたものに著しく偏っているという問題がある。女性の生き方を主題とする作品も一定のバランスで定番教材として扱われているのであればまだしも、エリート男性の苦悩が普遍的なものとして女子生徒に押しつけられてきた面があることは否定できない。女子生徒は「山月記」に共感してきたかもしれないが、それはエリート男性の苦悩という限られたものでしかないものを、現代人にとって普遍的な苦悩として錯覚させられてきたからに過ぎないかもしれないのだ。

 このように考えていくと、国語教師は、女子生徒にも李徴の苦悩を共感させようとしてきたことに気づく。夢を実現するにはライバルと切磋琢磨しなけらばならないのに本気でぶつからかったことを後悔する李徴は自分と同じだと、教師が誘導する。男性的な苦悩を女子生徒にも共感させることで、国語の授業を成立させてきた面があることは、「舞姫」や「こころ」を筆頭として、もうかなり前から気づかれていることだ。近年の文科省の方針における、国語という教科における「実用」志向と「文学作品」の削減の流れにおいて、ポリティカルコレクトネスやSDGsの思潮をも度外視して、「文学」のカノンを惰性的に採用し続けることはいかにも分が悪く、定番教材の編成を再考すべき時期に来ているのではないだろうか。

 現代の教育現場では、SDGsやジェンダー論が盛んに叫ばれ、教科指導においてはアクティブラーニングなど新しい授業のあり方が叫ばれる一方で、国語の授業においては、「文学」のカノンを中心とする定番教材が用いられ、従来の日本近代文学研究の研究史や、国語教育の慣習にとらわれた授業が行われている場合が多いように思う。「実用」が叫ばれ、「文学」無用論が言われる中で、「文学」教材もまた新しい視点や方法で読み解いていく方が、「文学」が「国語」の中で生き延びられる可能性が高まるのではないだろうか。

 補足:2021年10月6日、以上のような趣旨のツイートをしたところ、以下のような反応を頂いた。李徴を「男性ジェンダーから脱落した存在」とする読みで、李徴を「男性ジェンダーにとらわれた存在」とする自分の読みとは真っ向から対立する読みだが、ジェンダーの視点から李徴のあり方を理解している点は同じであり、納得できる読解であると思う。



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