〈死〉の啓蒙ー小川糸「ライオンのおやつ」評

 小川糸の小説『ライオンのおやつ』(ポプラ社、2019年10月)は、第17回(2020年度)本屋大賞で第2位となった作品である。孤独に生きてきた主人公の女性・海野雫は、医師から余命宣告を受け、瀬戸内の海が見えるホスピス「ライオンの家」で、そこで出会った人々と過ごしていく、という物語である。ホスピスを取り仕切っているのは「マドンナさん」と呼ばれる女性であり、看護師とカウンセラーの資格を持っている。「マドンナさん」のケアによって、患者たちはホスピスでの人々との出会いに感謝し、安らかな気持ちで死を受け入れていく。ヒロインもまた「マドンナさん」を絶対的に信頼し、「マドンナさん」の庇護の下、安らかに死んでいくのだが、しかし、この小説の印象は、どこか不気味なものだ。

 タイトルについて見てみよう。「ライオンの家」というホスピスの名前の由来として、ライオンは百獣の王で、誰にも襲われず、敵がいない存在だからということが語られている。終末医療でもう死を待つだけの患者たちが、それゆえに無敵の「ライオン」だという逆説を提示するわけだけだ。そして、このホスピスでは、患者(=ライオン)たちがおやつを食べる時間が作られているために、「ライオンのおやつ」というタイトルになっているのだが、これは小川のデビュー作である『かたつむり食堂』以来の「食」のテーマが引き継がれている。食は生命に関わり、食の場は古来、人々が語り合うコミュニケーションの場でもあった。共食、つまり他者と食事を共にすることは、コミュニティーの共同性や連帯性を強める手段であり、おやつの時間はホスピスの患者が互いに語り合い、打ち解ける場として、ホスピスに組み込まれている。 

 しかし、ここで気づくのは、ホスピスの患者たちは、間近に迫った死に飲み込まれる寸前の状態にあるわけで、いわば「ライオン=死」に食べられる存在でもあるということだ。「ライオンのおやつ」とは、「死=ライオン」に食べられる「おやつ=患者」を表わしていると受け取ることができる。これは丁度、同じく「食」をテーマにした宮沢賢治の童話「注文が多い料理店」において、山奥に建っていた西洋料理店「山猫亭」の「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください」という但し書きが、「注文が多い=客がよく来る」料理店ではなく、実は「注文が多い=客を食べるために客にいろいろ注文をつけて下準備させる」というダブルミーニングであり、二人の紳士は料理を食べる側ではなく、山猫に料理として食べられる側だったという二重性と重なるものだ。この物語は、「患者=ライオン(食べる側)/おやつ(食べるもの)」と「死=ライオン(食べる側)/患者=おやつ(食べられる側)」という二重構造になっているように思われるのだ。

 ところが、この物語において、物語の結末に至っても、このような「患者=ライオン」/「死=ライオン」の二重性は、明確に回収されているわけではない。この物語で語られるのは、ホスピスの患者たちが、ホスピスの仲間たちとの交流によって傷を癒やされ、自分の人生を振り返り、思い残すことなく、仲間たちに感謝の言葉述べて、粛々と自ら死を受け入れ、穏やかな様子で死んでいくありようである。患者たちは特に抵抗することもなく、いともたやすく、「死=ライオン」に「食べられ」ていくのだ。

 そこで大きな役割を果たすのは、「マドンナさん」だ。「マドンナさん」は、患者がまた一人死ぬたびに、立派な死に方だった、あなたが立派に死んだおかげで、ホスピスの穏やかな秩序が保たれていると患者たちの前で語るのだが、しかし、これは患者たちにホスピスの仲間たちやホスピスという場所を誇りを持つことによって、死んでいく患者に尊厳を与えるものである一方で、患者に対して、自分もまた見苦しくもがきあがくことなく、立派な死に方をしなければならない、というプレッシャーを与えるものではないだろうか。

 この物語において、共同体のメンバーが粛々と立派な態度で穏やかな死を死んでいくことで、共同体の秩序が保たれていく光景は、映画『ミッド・サマー』を連想させるものだ。そこでは「死」は個人のものから切り離され、共同体のものとなってしまう。それは孤独に生きてきた患者たちにとって、確かに救いかもしれない。しかし、この小説においてはあまりにも主人公を含む患者たちの「マドンナさん」への感謝と崇拝が強く、洗脳されているようにしか見えない。既に述べたように、「ライオンの家」において、死を待つのみの患者は、もう誰にも損なわれず食べられない無敵の存在だから、食物連鎖のヒエラルキーの頂点にいる百獣の王ライオンと同じなのだとされるが、これは欺瞞である。この物語において、真にヒエラルキーの頂点に存在する無敵のライオンとは、「ライオンの家」を作り、患者たちを看取りながらも、自身は死ぬことがない「マドンナさん」なのではないだろうか。

 この小説が「怖い」のは、このような二重性が掘り下げられることがなく、主人公が「マドンナさん」の言う通りに死を受け入れ死んでいくために、「マドンナさん」の思想に対する客観性がないことである。『ミッド・サマー』であれば、観客はホルガ村の歪さを理解できるが、この小説では多くの読者は「マドンナさん」の思想を相対化することは難しい。

 現代の読者が、終末医療や緩和ケアをめぐる物語を求める背景は理解できる。これまで不治の病に冒された女性を、恋人の男性が献身的に看病し、死を看取る「難病もの」が繰り返しベストセラーとなり、ジャンルを形成してきた。『ライオンのおやつ』がこのジャンルの作品として画期的であり、多くの読者に受け入れられたのは、従来の「難病もの」のように、異性の恋人との純粋な恋愛と痛切な別れが語られることによって、死をロマン化するのではなく、ホスピスで緩和ケア自体が主題となり、孤独に生きてきた女性が、死と向き合うことで、自分の人生を振り返り、周りの人々に感謝しながら、死を受け入れていくありようを描いた点にあるだろう。ネット上の読者の感想を見てみると、この小説のそのような点に、率直に感銘を受けた読者が多いことがわかる。

 しかし、従来の「難病もの」において特権化されてきた異性の恋人が後景に退く代わりに、ホスピスの創設者であり、終末医療と看取りについて崇高な使命感を持つ「マドンナさん」が超越的な存在へと押し上げられ、特権化されることになった。「マドンナさん」に逆らう者はなく、「マドンナさん」が作り上げたホスピスのカリキュラムに従って、「自分の人生を振り返り、周囲の人々に感謝し、死と向き合い、死を受け入れていく」ばかりの主人公は、その死において主体性を奪われているように見えるが、それで良いのだろう。もはや「死を超克する恋愛」の幻想を信じられない現代の読者は、この物語を通じて、ホスピスのカリキュラムに従っていれば死を受け入れていけることを学ぶのである。

 したがって、この小説の最も率直な感想は、次のようなものになるだろう。「わたしもこんなホスピスに入りたい」。それは死の教育者であり、死の商人でもある「マドンナさん」のような人物に自己を明け渡すことを意味するが、もちろん多くの読者はそれでかまわない。死んでしまえば「個」は消滅する以上、せめて他者/共同体の記憶の中で生きたいと願うからだ。この小説は正しく啓蒙の書であるが、しかし、それが新たな幻想でしかないことも忘れずにいるべきだろう。

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