清岡卓行「ミロのヴィーナス」と読者論

 高校現代文の定番教材である、清岡卓行「ミロのヴィーナス」を授業で扱った。この教材を扱うのは四度目だが、今までは定番教材という以外、あまり深く考えたことがなかった。どちらかといえば、古臭い文章で、なぜこれが定番教材になっているのだろう?と疑問を感じながら授業を行っていたと思う。しかし、今回授業を行っていく中で、この定番教材が長く教科書に掲載されている理由が理解できた気がしたので、今回、noteにまとめておきたい。

 この教材のポイントは、「両腕が失われた形で発見されたミロのヴィーナス像」が、圧倒的な魅惑的な美しさを持つことの不思議さだ。もともと製作者は両腕がある形でヴィーナス像を作ったにもかかわらず、十九世紀に発見された際には両腕は欠損しており、しかし、両腕がないヴィーナスは人類史上最も有名で、人間にとっての「美」を象徴するような美術作品となった。もし製作者が作ったときのままの両腕がある状態で発見されていたら、もっとすばらしいヴィーナス像を、われわれは目にすることができたかもしれないが、しかし、そうではないのではないか、両腕がない状態だからこそ、ヴィーナス像はこんなにも魅力的なのではないか、と著者は主張する。ここには、芸術を評価する際にわれわれが持つ常識や思い込みに対する、逆転の発想がある。

 製作者がどのようなヴィーナス像を作ろうとしていたかよりも、ヴィーナス像を見る者が失われた両腕からさまざまな両腕の形を想像することの方が重要だ、見る者の想像力の方が大事だ、という発想は、文学理論としては読者論に相当するものだ。文学研究においては長く作家論的な研究が行われてきたし、中学や高校における国語の授業においては、「作者の意図」を問う形で授業や試験が行われてきた。そうした背景を踏まえると、現代文の教科書において「ミロのヴィーナス」が定番教材として採用されてきたことは重要な意味を持つ。見る者(=読者)の想像力を重視する「ミロのヴィーナス」は、作者の意図など関係なく、読者が自由に小説を解釈して読み込んでいってもいいのだ、という読者論の立場に立つ評論だ。教師は、この評論を題材として、読者が想像力の翼を広げ、自由で多様な読みを実践していく小説の読み方を教えることができるのだ。

 このように考えていくと、「ミロのヴィーナス」は、従来的な発想を転換する革命的な評論だったことがわかる。この評論が発表されたのは、1966年に刊行された清岡卓行の評論集『手の変幻』だが、ロラン=バルドの「作者の死」が発表されたのは1967年。『行為としての読書』のヴォルフガング・イーザーにおいて受容美学(読者反応批評)の理論が胚胎したのも1967年である。また、現代文の教科書の定番教材である丸山真男の「「である」ことと「する」こと」(『日本の思想』1961年)には、「プディングの味は食べてみなければわからない」という言葉が出てくるが、芸術作品は美が作品に内在しているわけではなくて、見る者が鑑賞する想像力の裡にこそ胚胎するのだ、と読み替えることができる。「ミロのヴィーナス」という評論は、「する」ことの実践なのだ。両者は同時代性を持っており、一方は政治、一方は芸術について論じているわけだ。政治の季節、革命の季節において、芸術論においてもまた革命が起こっていたのだ。

 「ミロのヴィーナス」は、従来の常識を覆すような発想を持った評論だからこそ、評論らしい評論のプロトタイプとして、現代文の定番教材として生き残ってきたと思われるが、しかし、このような逆転の発想によってもたらされた知見は、現代の多様な思想と通じるものだ。「作者の死」や読者論、テクスト論にも通じるし、現代のさまざまな観客論とも通じる。これらの事柄を扱った文章は、現代の大学入試や模擬試験においても頻出する。それらのトピックについて、この授業の中で触れておくと今後役に立つと思う。

 また、これらの論点は、現代社会においてさまざまな文化を享受しながら生きている若者たちにとって実際に重要なものだ。現代においては作者と読者の境界は曖昧となっており、オタク文化においては盛んに二次創作が行われているし、そこから著作権の問題について考えることもできる。文化は誰のものなのか考えたとき、著作権の期限を五十年から七十年に延長することはいいことなのかどうか。青空文庫の存在をどのように考えるべきなのか。

 「ミロのヴィーナス」という評論は、基本的には、ある文化に触れて感銘を受け、そこからインスピレーションを受けて自由な創作や文化活動に歩み出そうとする者の背中を押し、二次創作としての創作を勇気づける。この評論が高校の現代文の教科書に載っている意義は大きい。

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 以下、補足としてこの授業でどのような授業を行ったか、授業実践や生徒の反応をメモしておく。

・「ミロのヴィーナス」は、詩人である筆者が豊富な語彙力とレトリックの限りを尽くして、ヴィーナス像への愛を語った評論である。そこで授業では、「好きな人の好きなところを語ってください」という問いで文章を書かせてみた。もちろん好きな人の名前は書かなくてもいいし、身近な好きな人でも、推しのアイドルやタレントでもいいとするような配慮は行った。みんなはこの評論の筆者と同じくらい推しの良さを熱く語れるのか。「語彙力(略)」って絶句してないか。推しに会いに行っても、好きなところを伝えられないとダメだぞ。用紙を集めてみると、生徒たちは意外と素直に好きな人の長所を書いていて、十代の多感な時期に人を好きになったり、心が揺れながら成長していくのだなと思ったし、生徒たちからも「みんながどういうことを書いてるのか知りたい」というリクエストがあったので、もちろん名前を伏せた上で、さらに他のクラスの回答を紹介したのだが、それでも十分盛り上がっていた。どんな答えがあったか気になると思うけれど、それはここでは伏せておく。

・これは授業実践しなかったけれど、アクティブラーニングとしては、ペア学習でお互いのいいところを上げて誉め合いをさせるのもいいかもしれない。こういう授業実践は、クラスの人間関係が良好であることが前提になるし、高校生は恥ずかしがる年代になっているので、無理はしない方がいいかもしれない。

・「ミロのヴィーナス」の第一段落に、「生命の多様な可能性の夢」という言葉が出てくるのだけど、だいたい生徒は抽象的すぎてよくわからんという顔をしている。その部分の説明が出てくるのは第三段落なので、ここで具体的に詳しく説明してしまうわけにもいかないのですよね。ぼんやりと理解しつつ、さらっと流すことが求められる。そこで自分が授業で実践したのは、「君たちのことだよ」と説明を加えること。「高校生はまだ何者でもないかもしれないけど、これから何にだってなれる。多様な可能性の夢そのものなんだよ」。この説明で生徒たちはなんとなく「わかった」という雰囲気になるので、次に進めます。

・今回の「ミロのヴィーナス」の授業において、最終的な着地点は、「欠落・空白は、見る者の想像力をかきたてる」というものになった。人間にとって想像力はとても重要なのだ、ということ。これに対して、生徒の感想としては、「ヴィーナス像の制作者は、見る人の想像力をかきたてたいから、わざと最初から腕がないヴィーナス像を作ったのだと思う」というものがあった。前提を覆してるのだけど、とても良い視点で、読者の視点からまた創作する側の立場に戻せば、そういう発想になる。そうやって想像力を広げたコミュニケーションを行いながら、作者と読者は、人と人はそれぞれ主観的な活動を行っていく。例えば、「欠落・空白が想像力をかきたてる」例としては、小説で美しい女性を出すときに、あまり詳しく描写すると、それぞれ読者によって好みが違うから、あまり描写せずに、「とても美しい女性だった」とだけ書くと、読者がそれぞれ勝手に自分が思う美しい女性像を想像する、という話があると思う。優れた作家は読者が想像力を用いながら小説を読んでいくことを折り込み済みで、それを想定した上で小説を書いていく。実際にヴィーナス像の制作者がどうしたかではなくて、そんな風に発想を広げて、考えていくことができる教材だと思う。

・また、生徒からは、「完璧じゃないからこそ美しいことがある」という感想もあった。人間も完璧な人間なんていないけれど、それも含めてその人の魅力だったりするわけで、こうした言葉が生徒から出てきたことには手応えを感じる。国語の授業が大きな変革を求められる中で、「ミロのヴィーナス」が今後も定番教材として生き残ることができるかどうかわからないけれど、今回の授業を通じて、教育的な効果としてこれだけの潜在力を秘めた教材として、「ミロのヴィーナス」を再評価できたことは、自分にとっては大きな意味を持つことだったと思う。






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