AKB化する部活動ー『もしドラ』と学校教育

 近年、もしかしたら、現代の学校の多忙化に一役買った本として、2009年に刊行されてベストセラーとなった、岩崎夏海『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』(通称『もしドラ』)があるのではないかと疑っている。『もしドラ』は、野球部のマネージャーとなった女子高生が、マネージャーの仕事を学ぶ本として、ドラッカーの『マネジメント』を選んで読んでしまい、勘違いに気づかないまま、実際に野球部の運営に応用していったところ、部活動の改革に成功する、という物語である。

 例えば、部員ひとりひとりに役割意識を持たせて、ミーティングを活発に行って部員の意見を吸い上げ、成果には評価を与えていくなど、やり甲斐や達成感を与えることで、部活動を楽しくできるものに変えていく。また、地域の清掃ボランティアや、少年野球との交流などを通じて地域と交流し、地域活性化に貢献するなど、学校の活動を社会に開いていくことで、部活動を学校の内に収まらない事業に広げていく。このような段階に至って、もはや部活動は必ずしも大会での成果を求めるものではなくなり、部活動の実践そのものに価値が見い出され、部活動を通じて生徒が様々な社会的な力を身に付けて成長していくものとなる。従来の部活動の勝利至上主義を批判し、部活動のあり方を変える提言を行った『もしドラ』は、2009年の段階において、学校教育のあり方の変化を促すものとして、啓蒙的な役割を果たした本だったように思う。

 そして、2021年の現代から振り返ると、『もしドラ』はまさに学校が変化していく時代において、出るべくして出た本だったことがわかる。というのは、『もしドラ』が刊行された2009年とは、大学全入時代が到来し、AO入試が本格化し、10年代を通じて一般化して普及していく時期だからだ。学力偏重教育への反省から「生きる力」を重視する教育のあり方へと教育の指針が変化していく中で、コミュニケーション能力や問題解決能力の育成が求められるようになり、総合的な学習や探究学習の実践が行われるようになっていく。『もしドラ』は、こうした教育をめぐる指針の変化の中で、思想的なバックボーンとして啓蒙的な役割を果たした本であり、実際、この本を座右の書として挙げる教員は少なくないように思う。

 しかし、ここには幾つか問題がある。第一に、この本がいかにすばらしい内容だったとしても、実際の運用において、この本で語られているようには、部活動の中にある問題がマネジメントによって全てがうまく解決していくとは限らない、ということだ。この物語はフィクションであり、ドラッカーの『マネジメント』がいかに優れた方法論を提示しているとしても、運用する人間が愚かであれば、たちまちそれは抑圧的なシステムに反転する。

 例えば、『もしドラ』の組織論には、

リーダーは部下に役割と責任を与えて仕事を任せたら、失敗しそうと思っても何も言わずに任せたらよくて、止めると自主性を奪うことになるし、新たなチャレンジも止めてしまう。仮に失敗してもそこから本人が学べばよい。

 といったものがあるが、これを実践できればもちろんすばらしいが、しかし、実際にこれを実践できる上司がどれだけいるだろうか。そして、さらに最悪なのは、自分ではそれを実践できていると思い込んでいるが、実際にはまったく実践できておらず、むしろこうした提言が抑圧的に用いられるケースだ。「私は失敗してもそこから学べばよいと思っているが、お前は失敗から学ぶことができない人間だ」とか、「お前は失敗を恐れてチャレンジすることができない人間だ」とか、こうしたそれ自体は善意をベースにした提言を、部下への抑圧に用いることなど幾らでも可能であり、実際にそれは日々行われているだろう。どれほどすばらしい提言であったとしても、結局は、組織として運用されることはなく、運用する人間――とりわけトップの道徳性に依存するのだ。

 もう一つの問題は、『もしドラ』の方法論そのものにも問題があるのではないか、という疑問だ。著者は、もともとAKBの運営に関わっていた人物であり、主人公「みなみ」の名前は、AKBキャプテンの「たかみな」こと「高橋みなみ」から取られていることを思い出して欲しい。AKBは握手会や総選挙に向けたアピール合戦など、様々な方法でアイドルたちに「がんばる」機会を与え、やり甲斐を与えて、がんばらせた。個人としての努力はもちろん、チームとしての仕事の達成に向けて他のメンバーと協力し合う一方で、総選挙に向けて競わせ、ファンとのコミュニケーションもがんばらせることで、成果を上げていった。そこでは、コミュニケーション能力や問題解決能力など社会的な能力が必要とされ、総選挙での順位やCDの売り上げ枚数など、事業としての成果が求められた。『もしドラ』の「マネジメント」はAKBがモデルなのだ。

 しかし、周知のように、AKBのアイドルたちは、確かに充実した日々ではあるが、多くの努力を求められる、あまりに過酷な日々の中で、どんどん疲弊し倒れて行った。『もしドラ』の映画版で主演を演じた前田敦子が、AKBのコンサートで過呼吸になり、苦しそうにしている姿を映し出すドキュメンタリー映像を見た人は、皆、「アイドルの世界はひどい、十代の女の子になんてひどいことを強いるのだろう」と感じたはずだ。考えてみれば、多くの人々とコミュニケーションを取り、ぶつかり合いながら協働連携して仕事を行い、自分の意見を主張しつつ、他者の意見も尊重して、解決に向けて話し合って出口を模索し、問題を解決していく、などということを続けていく日常が、十代の少女たちにとってどれだけ過酷なことか。体力的にもさることながら、心理的なストレスは莫大なものであるはずだ。AKBの過酷さは誰の目にも明らかで、心ある大人は批判していたはずだ。

 ところが、その後、10年代を通じて、日本の学校はどんどんAKBみたいになっていくのだ。そして、そこには『もしドラ』が啓蒙書として果たした力が大きく関わっている。10年代を振り返ってみれば、AKB(=秋元康)が「能力がある者が勝ち組となり、劣った者は負け組となる」という、新自由主義的なイデオロギーを体現したものだったものは見えやすいにもかかわらず、学校教育の現場においては、善意において『もしドラ』を通じて密輸入された新自由主義のイデオロギーが、まったく無批判なまま、浸透してしまっているのだ。

 生徒たちが学校活動において協働し、コミュニケーション能力を高めていくことは、教育効果としてすばらしいことかもしれないし、社会で活躍する人材を育成するために必要なことかもしれない。しかし、そこで躓き、人間関係に苦しんで、不登校になる生徒も少なくないのではないだろうか。そして、とてもではないけれど、現時点で他者との協働などできるような状態ではない生徒にとって、そうした学校活動――ひいてはそうした活動が活発な学校空間そのもの――は苦痛なものでしかないのではないだろうか。あるいは、他者との協働が社会人として必須の能力であるとして、多くの人がそれを薄々苦痛であると感じており、ハラスメントの問題が陸続きに出て来ている現代社会において、そうした社会のあり方を見直す時期に差し掛かっているのではないだろうか。

 電通の新入社員だった高橋まつりさん(当時24才)がパワハラで自殺したのは、2015年12月である。インフルエンサーの「はあちゅう」は、2017年に電通時代のパワハラをブログで訴えたが、それもまた仕事における「問題解決」に向けた、過剰な「コミュニケーション」を求められる中で起きた出来事だった。『もしドラ』が啓蒙的な役割を果たしたにせよ、SDGsと働き方改革の時代において、教育においても、根本的な指針の転換が求められているように思う。

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