スクールカーストと革命ー「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」の誤謬

 2019年11月刊行の14巻で完結した渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(通称『俺ガイル』)は、2011年3月刊行以来、10年代のライトノベルを代表するシリーズであり、学校内部に存在する「リア充/非リア」の階層構造――すなわち、「スクールカースト」をテーマに掲げたことで、注目された作品であった。しかし、もともと「スクールカースト」の最底辺に位置し、青春を謳歌するリア充たちを呪っていた男子高校生、「ヒッキー」こと比企谷八幡を主人公とするこのシリーズは、結局のところ、ヒッキーが「スクールカースト」の上位層に階層上昇を果たすことに帰着したように見える。これはいったいどういうことなのだろうか。

 「スクールカースト」は、おそらくもともと80年代に「ネクラ」、90年代に「オタク」という侮蔑的な呼称が出現した時代から存在していたものであるが、「スクールカースト」という階層構造として認識されたのは、90年代からゼロ年代にかけて、社会が新自由主義的な思想に基づく格差社会に変貌を遂げたことによる。まず社会において階層が出現することで、学校空間における階層も可視化されたということであろう。学校は、何よりも社会を映し出すのだ。

 もう一つ、ゼロ年代の「学園もの」において流行したものに、「キャラ」がある。「スクールカースト」が存在する学校空間において、「キャラ」を作り上げ、求められる「キャラ」を演じることによって、友人たちとのコミュニケーションを成立させて、学校での居場所を確保することができる。ゼロ年代においては、学校空間でのサバイバルを賭けた物語として、白岩玄『野ブタ。をプロデュース』(2004年)、木堂椎『りはめより100倍恐ろしい』(2006年)、朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』(2010年)など、「スクールカースト」を主題とした小説が次々に刊行されて話題となり、映画化やドラマ化も行われていった。2012年には、社会学的に「スクールカースト」を分析した、鈴木翔『教室内カースト』(光文社新書)が刊行されている。

 これらの作品群で描かれたのは、「スクールカースト」が存在する学校空間において、いかに現代の若者たちが「キャラ」を作り上げ、友人たちとのコミュニケーションを維持することに腐心し、それがほとんど生存に関わるような切実なものとして意識されているか、ということであった。たかだか高校生活の三年間など大人の目から見ればたいしたことではない――それはそうなのだが、しかし、実は大人の社会においても「キャラ」を作り上げ、職場での人間関係を維持することが、生存に関わる点では同じである。そして、ゼロ年代とは、学校教育において、社会において役立つ存在となるためには、他者と協働して仕事を進めていくことができる「コミュニケーション能力」が求められるのだ――そのような指針による教育へと転換していく時代だった。「スクールカースト」における「リア充/非リア」、「コミュ強/コミュ障」の階層構造は、格差社会の階層構造を、そのまま反映したものだったと言えるだろう。

 『俺ガイル』の主人公、「ヒッキー」こと比企谷八幡は、もともとクラスで孤立している存在であったが、教師の計らいによって、奉仕部に入部させられ、校内一の美人であり才女である雪ノ下雪乃とともに、奉仕部に持ち込まれた依頼を解決していく過程において、自分が犠牲になって嫌われ者になることによって、リア充たちの人間関係を修復する、という自己犠牲的な行動を繰り返す。自分を見下して、バカにしてくるリア充たちの複雑な人間関係にわざわざ介入し、自分が嫌われ者になってまで、リア充たちの人間関係を修復するなど、これほどバカバカしいこともないはずだが、ヒッキーには、今さら自分はいくら嫌われてもよいという、自尊感情の低さから来る屈折した自己認識と、他者の痛みに対して敏感で、なんとかできるならなんとかしたいという利他主義が併存し、「泣いた赤鬼」における青鬼のような行動を繰り返す。

 しかし、「泣いた赤鬼」の青鬼と異なるのは、ヒッキーはその後、そうしたヒッキーの行動を見ていた人々に認められ、それらの人物と人間関係を結んでいく点である。ヒッキーがこなしていくミッションは、他者の痛みを感受する共感能力や、人の心を正確に把握して、その後の心理的な動きまで正確に計算して先読みした上で、巧みに操作していくという、きわめて高度な知的能力や問題解決能力を示すものであり、端的にヒッキーが優れた人物であることを証明するものだ。ヒッキーがクラス上で孤立した存在であったのは、中学校時代の黒歴史――ひどい失恋体験がトラウマとなり、それを引きずっていたために過ぎない。

 ヒッキーはもともと優れた人物であり、それが周囲に認知されてみれば、後はヒッキー自身の屈折した内面のありようが問題になるに過ぎない。物語の終盤において、奉仕部の活動を通して、ずっと他人のために駆け回っていたヒッキーが、最後に自分のために周りを振り回す行動に出る。別にやる必要はないのだけど、自分が他者と関わりたいという理由で、大きなイベントを仕掛けていくことによって、ヒッキーは自分自身で作り上げた自分の殻を破っていく。そのことによって、ヒッキーを「スクールカースト」の底辺に置かせていたものは、完全に消滅するのだ。

 かくして、『俺ガイル』は、本来、「スクールカースト」の上位層に存在するはずだったヒッキーが、失敗と挫折によって、一度は「スクールカースト」下位層に転落していたけれど、試練を乗り越えることによって、やがて「スクールカースト」の上位層に帰還するという、貴種流離譚的な構造を持つ物語となる。あるいは、このように言うべきだろうか。ヒッキーは一度、「スクールカースト」の最底辺に転落し、めんどくさい自意識をこじらせたからこそ、雪ノ下雪乃という高貴なヒロインと対等なパートナーとしてふさわしい存在に変化することができたのだと。

 最終巻を読んでいると、ヒッキーはそのめんどくささによって、セレブの仲間入りをしているという印象を抱く。プライドが高く、めんどくさい自意識をこじらせていてめんどくさいが、しかし、めちゃくちゃ仕事はできる。「できる男」としてバリバリ仕事をして活躍し、成功者の仲間入りをしている将来が見える。ヒッキーは、「スクールカースト」の上位層――ひいては、社会における上位層に迎えるにふさわしい人物として、雪ノ下家に象徴される学校/社会の上位層に迎え入れられるのだ。『俺ガイル』において、学校と社会は連続している。

 最終巻において、ヒッキーはカースト底辺時代の友人である材木屋について、あいつと高校時代を過ごしていく選択肢もあったはずだ、という感慨を抱く。ヒッキーは「スクールカースト」の階層を上昇したことによって、もはや材木屋のようなカースト下位層の友人たちと時間を共にすることはない。――しかし、これでは『俺ガイル』とは、単にヒッキーが、「スクールカースト」の最底辺から上位層へと階層上昇しただけの物語ということにならないだろうか。それは例えば、成績においては落第生集団のクラスでありながら、戦闘実践においては上位クラスに勝つこともある、井上堅二『バカとテストと召喚獣』(通称「バカテス」、2007年1月~2015年3月)と比較しても、革命の可能性という点において、明らかに後退しているのではないだろうか。

 『俺ガイル』は、新自由主義の時代における「青春」を見事に描き切ってみせた物語であるようにも思われる。『俺ガイル』は、もともと『桐島』の一年後に開始されている。『桐島』では「スクールカースト」の上位層に位置する桐島の失踪が語られていたが、『俺ガイル』は「スクールカースト」上位層を「非リア」が救済する物語として始まった。「スクールカースト」の物語群において、最も苦しいのは実は「スクールカースト」上位層のリア充たちであるという物語が語られた後で、『俺ガイル』においてもはや「スクールカースト」の底辺にとどまるという、「楽な」選択肢は許されていない。だからこそ、ヒッキーは「スクールカースト」の上位層であることを引き受けるのだ、と言える。格差社会においては、誰もがひきこもっていることは許されず、社会で活躍していくことが求められるからだ。

 しかし、ここにも欺瞞がある。階層の上位に位置する人々も苦しいかもしれないが、やはり階層社会において最も苦しむことになるのは、階層の上位層ではなく、階層の底辺にいる人々なのではないだろうか。『俺ガイル』の物語が、結局のところ、ヒッキーの自意識や他者との関係性の問題に収斂したことに注意しよう。自分の問題に折り合いをつけたヒッキーや雪乃が、高校を卒業した後で、社会においてどのように階層を越えて開かれていくのか。問題はそこにかかっている。

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