自己啓発・教育・新宗教ー島薗進『新宗教を問う』と今村夏子「星の子」

 島薗進『新宗教を問う』(ちくま新書)は、明治時代以降に勃興した新宗教研究を総括した本であるが、戦前から戦後において新宗教が勃興した時代と現代が重なり、現代は再び新宗教が拡大していく時代なのかもしれないという感想を持った。

 とりわけ興味深かったのは、創価学会の初代会長となった牧口常三郎がもともと教師で、「教育とは子供に価値創造ができるようにしていくことである。自らの力で新しい価値を創造していける人間を育てる。そのための教育が必要だ」という教育観を持つ教師だったことだ(注1)。牧口の教育観は、当時の公立学校では抑圧されるが、しかし、宗教団体の運営に生かされ、組織の拡大に寄与していく。「新宗教の信徒の中には、仲間を増やしていくことで、それまで発揮できなかった能力を発揮できる人たちが多数いた」、「とくに三十代から五十代の中年女性たちが布教の中心となり、新たなリーダー=フォロワー関係をつくっていったのだ」。宗教団体は信徒に活躍の場を与え、能力を発揮して成長していく機会を提供するが、これはもともと教育者の発想であるわけだ。「自分の力で新しい価値を創造していける人間」は、戦前の学校では抑圧されたかもしれないが、現代の教育のテーゼそのものだ。

 ここで気づくのは、こうした発想は、現代の自己啓発セミナーや、そのネット社会版であるオンラインサロンにも繋がるものだということだ。現代のオンラインサロンにおいては、自分が成長することを目標として、インフルエンサーが主宰するオンラインサロンに集まり、そこに集まった他者と協働し影響を与えながら、「成長」していく。具体的に何を目標とし、どのように社会に貢献しているのかは必ずしも明確ではなく、とにかくそこに大勢の人間が集まって組織を作り、活発なコミュニケーションを取り扱うことで影響を与え合い、「成長」していくのだ。このように、具体的な目標を欠いた、「成長のための成長」、「コミュニケーションのためのコミュニケーション」の自己目的化したコミュニティーが、しかし、現状への不満と変革への漠然とした欲求を抱きながら、明確な目的や方法を持たない、孤独な都市生活者の受け皿となっていくのである。

 参加者の「成長」が目標とされる点において、オンラインサロンと学校教育は相似しているが、「成長」することで幸福になるという発想は、自己啓発の思想と同じものだ。『新宗教を問う』によれば、自己啓発の元になったニューソートの思想は、「自らの想念を変えることで、癒しや運命の転換をもたらすことができる」、「人間の心の転換こそが幸福の源泉だ」(P120)というものである。しかし、これは欺瞞である。どのように自分が変化したところで、社会状況が悪ければ幸福を獲得できる者の数は限られている。とりわけ勝ち組/負け組が分断された新自由主義に格差社会において、「自分が変われば幸福を得られる」という言説は、社会に問題があるにもかかわらず、「幸福を得られないなら自分が変わるしかない」として、非正規雇用労働者に対して半永久的に「成長」を強いる抑圧でしかない。どのようなありようが「成長」した姿なのか、判断を下すのは権力を持つ者であり、結果としてハラスメントが横行する。「自分を変えろ」「成長せよ」という一見、正しい思想は、社会のあり方に問題があるにもかかわらず、改革できない社会において、個人の側に社会への適応を求める抑圧的言説として機能する。

 企業の新人研修において、人格を否定するような罵声を浴びせかけて新入社員の人格改造を図る、苛烈な研修を行う企業が存在するが、これは軍隊の新人育成を継承したものだ。映画『フルメタル・ジャケット』(監督スタンリー・キューブリック、1987年)では、新人の育成を担当するハートマン軍曹によって、汚い言葉を使って罵倒し、人間としての尊厳を破壊しようとするのは、普通の若者を短期間で、戦場での死を恐れずに戦い、敵兵を殺すことができる兵士に鍛え上げるには、これまで平穏な市民社会の日常生活に中で作り上げてきた人格を一度破壊し、兵士のそれへと作り変える必要があるからだ。

 映画のタイトルである「フルメタル・ジャケット」とは、フルメタル・ジャケット弾(被覆鋼弾、完全被甲弾)から来ているが、「兵士=銃弾/爆弾」という比喩は、日露戦争ものを題材にした、櫻井忠温『肉弾』(明39)などでも共通する。これはつまり国家は戦時において、普通の若者を「兵士=銃弾」へと作り変えてしまう、ということだ。普通の若者である新入社員を、罵声を浴びせて人格を否定して破壊し、企業戦士へと作り変えるブラック企業の新人研修セミナーとは、経営の論理を盾に、平時において会社での労働環境を戦場と見なし、労働基準法などを度外視した、常識が通用しないブラック労働へと若者を駆り立てるための「洗脳」にほかならない。

 しかし、実は、映画『フルメタル・ジャケット』において、キューブリックは軍隊教育は若者たちを幼児化させるものであることを示唆している。映画には、去勢を象徴するシーンや、スヌーピーやミッキーマウスといった子ども向けのキャラクターが繰り返し登場する。(参考︰『フルメタル・ジャケット』キューブリックが描いてきた幼児性と狂気の関係) 兵士としての人格を作り上げる過程においては、一般に「大人」として必要なものとされる幅広いものの見方や考え方を身につけることではなくて、それとは逆に、上から命令されたことを何も考えずに実行できることが目標とされる。そこでは、自分で思考し判断して行動する主体性を放棄することを求められ、無思考で行動し、快楽や苦痛を享受する受動的な存在へと幼児化するのだ。そして、そうした傾向は現代のブラック企業において、さらに言えば、同調圧力が強い日本の企業一般において、多かれ少なかれ存在するものだ。

 時代を象徴するヒット作となった漫画『鬼滅の刃』には、敵側のボスである「無惨様」が部下である「下弦の鬼」たちを集めて、なぜ成果を出せないのか質問し、気に入らない答えをした鬼たちを、彼らの「言い訳」を聞き入れることなく、次々に容赦なく一方的に殺していく、ファンの間で「パワハラ会議」と呼ばれる場面が存在するが、「パワハラ会議」でツイッター検索すると、「無惨様は正しい。下弦の鬼たちはことごとく間違った答え方をしている。上司に逆らうのは絶対にやっちゃいけないことだ」などと無惨様のパワハラを肯定するツイートが出てくるが、このような労働観は日本社会において、むしろマジョリティーであるだろう。日本の企業風土においては、無惨様の「パワハラ会議」ですら肯定されるような、組織に絶対服従する人格が求められるのであり、そうした社会において、「自分を変えろ」というアドバイスは「自分を捨てろ」を意味する。個人としての人格などは、社会にとって不要なのだ。

 そして、『鬼滅の刃』が過酷なのは、そのようなブラック企業的な存在である鬼を倒す側の鬼滅隊もまた、子どもを情け容赦なく選別し、死に追いやっていくブラック企業的な組織であることだ。主人公の丹治郎は澄み切った心を持ついい子であるが、子どもらしいわがままや自己中心性ーー主体性は欠如しており、ただ他者のために尽くすために自己を滅却し、鬼との戦いに駆り出されるのである。

 これまで、新宗教、教育、自己啓発、ブラック企業と見てきたが、人は自分の力を社会で役立てることに喜びを感じるがゆえに、人の力を必要とする社会の側では社会にとって都合がいい形へと、人間の人格を作り変えようとする「教育=洗脳」が行われるのだ、とまとめることができるだろう。しかし、「社会」は一枚岩ではなく、様々な「あるべき人格」のモデルが存在するために、その都度、人格を作り変えることが必要とされる。戦時においては「銃弾」となることが求められながら、戦場から市民社会に帰還すれば、それはもはや市民社会と軋轢を起こすものでしかなく、適応障害を起こすだろう(『ランボー』)。ブラック企業においては、「自由で自律的な主体」という近代市民社会の理想と、企業が求める企業戦士との間に乖離が存在するために、改めて企業戦士へと人格改造を施す新人研修が必要となる。

 そのような文脈において注目したいのは、今村夏子の小説「星の子」である。「星の子」には、主人公の少女を取り巻く環境として、家庭、学校、新宗教という三つの教育の場が存在するが、そのいずれもがそれぞれに問題があり、少女に苦難をもたらすものであると同時に、少女に救済や助言を与えるものでもあるという描かれ方をしている。三者の関わりは重層的で輻輳的なものになっている。それぞれの社会がそれぞれに少女を自らの側に取り込もうと「教育=洗脳」しようとする中で、少女自身が自分で考え判断し選択するこの作品は、その選択が正しいのか間違っているのか、少女の選択を尊重することが正しいのかという判断も含めて、「教育=洗脳」が子ども(ひいては現代社会に生きる人々)を取り巻く社会について考える契機となるはずだ。


注1︰牧口は、農政学者、新渡戸稲造が、明治42年に作った「郷土会」(各地の郷土の制度、慣習、民間伝承などの事象を研究し調査する会)の会員であったという。同会の会員には、柳田國男もいた。牧口は32歳で『人生地理学』を刊行して、新渡戸・柳田に認められ、柳田と民俗調査を行ったという。近代における人文地理学をめぐる、こうした人的ネットワークの構築は興味深い。

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