気遣いと共依存ー映画『愛がなんだ』のマゾヒズム戦略

 映画『愛がなんだ』は、原作は角田光代の小説で、徹底的に相手に尽くすタイプの女性の恋愛の意外きわまる行く末を描く、異形の恋愛映画である。ヒロインのテルちゃんは思いを寄せる男性であるマモちゃんにあれこれ尽くすのだけど、うざがられるし、結局のところ愛されず、雑に扱われてしまう。男が好きなのは、煙草を吸い、肌もガサガサで、魅力的とは思えない、がさつな三十女の方なのだけど、理由は「あの人全然気を遣わないじゃん。こっちもその方が楽だし」というものだ。

 しかし、かといって、テルちゃんも完全にマモちゃんと縁が切れるわけではなく、呼び出せばいつでも来てくれる「都合のいい女友達」として、関係は続いていく。テルちゃんはマモちゃんの側にいたいために、自分の思いは隠して、「女友達」として男の側にいようとする。男は男で「都合のいい存在」としてテルちゃんを利用してるのだけども、テルちゃんもまた、「都合のいい女」でいることを愛だと勘違いしているのだ。

 このように、「利用してる者」と「利用されてもいいと思ってる者」のペアは、この映画には、性別を逆転した形でもう一組出てくる。モデルの女(葉子)と、彼女に憧れる男(中原)で、「寂しいとき、あ、中原いるじゃんと思ってくれればいい」などと言っている。中原の方は恋人になりたいと思っているが、女が求める「都合のいい男」の位置、ようは、セックスフレンドの立場に甘んじる。テルちゃんや中原は、「セフレ」や「友達」といった都合のいい存在への「格下げ」に応じてしまうわけだ。

 もちろんテルちゃんも中原も、相手と対等の立場で恋愛の関係を作りたいと思っているのだが、相手には、自分と対等の立場で恋愛の関係を作る気がないと気づいた時点で、恋愛関係の要求を取り下げ、相手が自分に望む関係に合わせる形で、相手との関係を維持しようとする。人間はみなお互いに対等の立場で付き合うのが建前だが、実際にはまったく対等なんかではなくて、どういう関係を築くかについてのコンセンサスは、どちらがより強く相手に執着しているかによる。より執着が強く、相手に見捨てられたくない側の方が弱く、そして、誰とどのように付き合うかは自由意志である以上、それを非難することもできない。

 相手の方が強い立場で、自分は弱い方の立場だと気づいた瞬間に、相手が望む関係性の形に合うように、自分の「出方」を微調整して変えていく――このようなことは、多くの人が日常的に行っていることであるはずだ。束縛されず自由に振る舞ってる者が強者の位置にいて、そうした強者に憧れて依存する者が、自分から尽くして、必然として雑に扱われて、「わたしって何なの?」と悩むのだけど、決定してしまった関係性は覆せない。そうして、弱い立場の者の方が相手に強い執着を持ち、相手から離れたくないとするならば、彼女は自分の気持ちを抑えて、徹底的に相手に都合のよい相手を演じようとすることになるだろう。 

 ここで浮上してくるのは、「気遣い」の問題である。マモちゃんががさつな三十女に恋愛感情を抱くのは、彼女が自由な雰囲気を持っていて、自分にも他人にも寛容な姿勢を示すタイプであるために、「気を遣う必要がない」ためだ。マモちゃんは、テルちゃんに、「気遣いされるの嫌なんだよね。気遣いされない方がこっちも楽だし」と言うが、「自由であること」を体現する者は、社会生活において絶えざる他者への気遣いを強いられている若者たちにとって、求めて止まない理想形なのだ。

 しかし、もちろんそのような理想は欺瞞に過ぎない。気遣いをしなくてよいのは、二者の関係性における権力関係において強い側であり、弱い側は気遣いを強いられる。そして、そうした関係の中で、「気遣いされるの嫌なんだよね。気遣いされない方がこっちも楽だし」と言われたとき、弱い側としては、いかに相手のために気遣いをしていないように見えるように装うか、という、さらにレベルアップした気遣いをするようになるだけなのだ。

 人間関係などというものは二人寄れば、必ずそこに権力的な駆け引きが生じて、何らかの束縛や拘束力が発生するものだ。お互い自立した者同士で、気遣いとかしないで、サバサバしていて、自由に振る舞う関係」とか幻想でしかないよね、というのが、気遣いする者(=キヅカイスト)の言い分だ。それが嫌だ。他人は鬱陶しいし、自由でいたい。でも一人は寂しい。そうした葛藤の末に、「気遣いしないサバサバした人って気持ちいいよね」ということになるわけだけど、結局はそんなものは幻想で、「気遣いしてないように見せる気遣い」がうまい人、より高度な気遣いができる人がいるだけなのだ。

 「気遣い」の反対は、「無神経」だ。気遣いする人は苦しいかもしれないが、気遣いされる側の人は気遣いされるほどに、「無神経」ということになってしまう。ここにも逆説がある。テルちゃんが食事・洗濯・掃除を全部やってしまうことで、マモちゃんは別に尽くされるのを望んでいないにもかかわらず、テルちゃんの気遣いに気づかないことによって、「無神経な男」だということに、どんどんなっていくのだ。

 したがって、「気遣いされるのが嫌な人」「自由でわがままな人」というのは、気遣いする者にとっては、実は、「つけこむ隙がある人」だ。あれこれ世話をして他者を支配し、甘やかして無能力な人間にスポイルする。中原が「自分が葉子さんをダメにしてるんだって気づいた」と言うように、相手に気遣いしていることを気付かれないようにさえして、一方的に気遣いして世話をすることのよって、相手を支配しようとするのだ。

 一見、事態は逆に見える。なにしろテルちゃんは、マモちゃんにいつ呼び出されても大丈夫なように、会社を辞めて、フリーターになってしまうのだから。恋愛依存を越えた徹底的な自己放棄。しかし、これはテルちゃんがマモちゃんに支配されているのではない。テルちゃんは「マモちゃんになりたい」と言う。テルちゃんは自分がマモちゃんに尽くしていることを知っているが、マモちゃんはそのことを知らない、無知の状態に置かれている。テルちゃんはマモちゃんに徹底的に尽くして自己放棄することによって、密かにマモちゃんの全体をまるごと領有することができるのだ。このような「従属による支配」とでも言うべき事態は、谷崎潤一郎が高貴な女性に奉仕する男の欲望を語り出す、「春琴抄」をはじめとするマゾヒズムを主題とする文学において描き出したものだ。

 後に残る疑問は、なぜテルちゃんがこのような欲望を持つに至ったのかという点だ。この点については、結婚がゴールではなく、結婚後も働き続ける時代になったという時代背景が影響しているだろう。作中には、結婚するが、いずれ離婚するかもしれないことを考えると、会社を辞めることはできないと言う同僚の女子社員が登場する。しかし、テルちゃんにとって、そのような発想は受け入れがたいものだ。なぜみんな愛に愛に生きようとしないのか。テルちゃんの愛は今どき重いものだが、映画の冒頭でテルちゃんがマモちゃんの部屋に持ち込む土鍋は、テルちゃんの愛の重さを象徴している。テルちゃんの愛は今どきの世の中で理解されにくく、「バカ」「ストーカー」「不気味ちゃん」ということになってしまう。昭和の時代のサラリーマンと専業主婦のペアによる家父長制的な家庭であれば、共依存的な夫婦関係を作り上げることができただろう。しかし、女性も働き続ける現代社会において、そのような共依存的な夫婦像は失われてしまった。そのような時代において、自己と他者との共依存的な一体化を求めるとするならば、どのようにして可能なのか。テルちゃんが行きついた異形の愛の形は、その一つの答えにほかならない。

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