世界初!90年代レイヴとKawaiiの強い繋がりを紐解く。DOMMUNE「Kawaii77年史」後半:原宿Kawaiiの誕生から未来へ
2022年1月22日にライヴストリーミングスタジオ『DOMMUNE』で開催された"増田セバスチャンと宇川直宏が語る「Kawaii77年史」〜 77 YEARS HISTORY OF Kawaii CULTURE”。5時間に渡ったイベントをチラ見せレポート後編です。
前編はこちらから↓
チャプター6までの予定が、2までで既に半分の時間を消化してしまっている…!そんな内部の焦りとは関係なく、スタジオでは観客の皆さんが真剣な眼差しでトークを見つめ、熱気に包まれていました。
ついに、ここから目線はKawaiiの聖地・原宿の歴史へ移ります。
チャプター3「原宿の歴史とKawaii」
戦後、在日米軍施設「ワシントンハイツ」だった場所が、どうしてKawaiiの聖地になったのか?1964年東京オリンピックを期に返還されたあとの原宿の歴史を振り返ります。
70年代は、レオン、MILK、セントラルアパート…大人の原宿、デザイナーたちが集まるということもあり、まさに「新しいことが生まれる場所」。
その後、現代の原宿のストリートカルチャーの原点・歩行者天国(1977-98)が始まり、80年代は「若者の表現の場」という役割がはっきりしてきます。
当時高校生だった増田セバスチャンは、電車でわざわざ見に行っていたという竹の子族やバンドブーム。しかし、ゴミと騒音の問題が解決できず、演奏や音楽は禁止になっていきます。
90年代に入ると、そんなホコ天の中心となっていたのは、音が必要ない自己表現・ファッションでした。
同時期である1995年に増田セバスチャンが25歳で原宿に構えたショップが、今も続く「6%DOKIDOKI」。当時「知り合いしか来なかった」と増田セバスチャンも語るその店が世の中に知れ渡ったのは、オープンして1年後の1996年。『H』という雑誌でソフィア・コッポラとカヒミ・カリィが来店したことがきっかけでした。
チャプター4「90s原宿ストリートとUKレイヴカルチャー」
そして、ここからは原宿発のKawaiiと世界の接続を追っていきます。ゲストとして登場したのは、マルチクリエイター・紅林大空さん。現代におけるKawaii文化の体現者のひとりです。
まず、原宿ファッションが世界に広がった一つのきっかけ、BENETTONの広告であるオリビエロ・トスカーニの「Kokeshi Dolls」の話から。
オリビエロ・トスカーニはブランドの広告写真にAIDS、人種差別、戦争、死刑制度等を正面から取り上げた写真家。彼に切り取られた、カラフルで個性的で無垢な若者たちの姿は世界に衝撃を与えます。
そして同時期にその後に影響を与えるのが、女の子の日常を切り取ったガーリーフォトというブーム、世界中に広がったガーリー文化のなかで、トップカルチャーとして日本があったと宇川さん。
そして今回、増田セバスチャンと宇川さんが揃ってKawaiiに影響を与えたと話すのが、90年代のレイヴ文化です。
ここを詳しく語るのが、実は今回のDOMMUNEのキモでもありました。おそらく世界初、90年代のレイヴ文化とKawaii文化の接続語り。セバスチャンがダイレクトに影響を受けたカルチャーであり、当時サンフランシスコにいた宇川さんの深掘りにも注目です!
シカゴから西海岸と広がるレイブですが、アメリカでは規制が厳しくなりその流れはヨーロッパへ。そして、ヒッピー文化を生み出した西海岸の1st Summer of love(1967)から、ロンドンの2nd Summer of Love(1988)へと接続していきます。
紅林さんがつけていた「Kandi(キャンディ)」(アルファベットやビーズが連なっている腕輪)も、レイバーファッションの1つ。DIY&カラフルに重ね付けするスタイルは、現代のKawaiiにも引き継がれています。
日本発祥のファッション「デコラ」の起源は諸説ありますが、90年代レイブファッション×戦後少女文化から続くDIY精神のミックスだったのでは、と考察するセバスチャン。
日本では石野卓球さんプロデュースでデビューした篠原ともえさんの「シノラー」ファッションを思い出す人も多いかもしれませんが、テクノやレイヴの歴史からも、「シノラー」もまさにこのレイヴファッション×Kawaiiで誕生した90年代ファッションであると言えるでしょう。
さらに、宇川さんから繰り出された80年代のサイケデリックアニメーション 。驚くべきは、ビジュアルデザインを手掛けていたのは日本人の女性だったということ。日本のガールズカルチャーの影響がここにも…
本当はここからアニメーションをもっと掘っていきたいところですが、時間がないので泣く泣く次のチャプターへ進みましょう。
チャプター5「00s-10s: Kawaiiと世界」
2000年代に入ると、ホコ天が無くなった原宿は一気にシンプルファッションへ移行し、ユニクロをはじめとしたファストファッションも登場します。90年代の盛り上がりによってブランド性が上がった原宿の裏通りは地価が高騰。原宿カルチャーを生み出していた若者たち主導のお店やブランドは、姿をどんどん姿を消していくのです。
それは、"原宿の危機"として海外メディアにも取り上げられました。
では、原宿は死んでしまったのか?いえ、そうではありません。
その頃、急激に普及したインターネットを通じて、原宿ファッション、そしてKawaiiカルチャーのファンが世界に広がっていると気づいた増田セバスチャン。当時のSNS「My Space」での反応を大きな見て、世界のファンに会いに行くワールドツアーを決行します。
こうして、増田セバスチャンは世界中のファンと交流を深めていきます。
そのあと起こったのが2011年の東日本大震災、そしてその直後に「YouTube」を介して世界を熱狂させたのが、増田セパスチャンが美術を担当したきゃりーぱみゅぱみゅの「PON PON PON」のミュージックビデオでした。
ワールドツアーで出会った若者たちこそ、このMVを見る子たちだと確信していた、と増田セバスチャン。映像に映る大量のアイテムは、2tトラック1台に詰め込んでスタジオに搬入されたセバスチャンの私物たち。あえて日本のおもちゃやお菓子を入れないで作りあげられたカラフルな空間は、逆に「まさにTOKYO、HARAJUKU!!」という評価を受け、その目論見通り世界中で拡散されたのでした。
当時、ドイツのイベント参加中にこのPVを知ったという宇川さん、その興奮を語ってくれました。
宇川「奇想のポップアイコンを最古に落とし込んだ。90年代の世紀末の悪趣味文化の時空を彷徨いながらかいていた1人だったが、きゃりーぱみゅぱみゅが全部浄化してくれた。グロテスクな衣装をKawaiiに接続した一本だった!」
「きゃりーちゃんが、サブカルチャーからメインカルチャーにうつしていきましたよね」と紅林さんも続きます。
このMV以降、世界ではKawaiiをモチーフにした動画がたくさん作られます。日本もクールジャパン政策などで、Kawaiiをテーマに世界へとアピールを始めます。
セバスチャンが例として紹介したのは、アメリカの映像作家Mike Divaによる2本のKawaiiモチーフのビデオ。当時話題になったトランプの非公式CM(2016年)と、LAのメトロの公式CM(2017年)です。
そして、忘れてはいけません。
Kawaiiが最高に盛り上がった2015年に原宿に誕生したのが、「Kawaii Monster Cafe」でした。
チャプター6「20s:コロナ禍とKawaii」
しかし、ここで襲ってきたのが新型コロナウィルス。
2020に開催を予定していたオリンピックは混迷を極め、たくさんのイベントや企画も頓挫。Kawaiiが若者や女の子だけのものではなく、多くの人がハッピーになるための文化であることを世界中に伝えたレストラン「Kawaii Monster Cafe」は、世界中に惜しまれながら2021年1月31日にクローズしました。
コロナ禍で増田セバスチャンは、カラフルな服を着て街へ出ることができない世界中のKawaiiコミュニティに向けて、「Kawaii Tribe宣言」(2020)を投稿します。
こんな時だからこそ、声をあげよう!
「Speak Up」で締められるその宣言文は、瞬く間に世界中の言語に翻訳され、広がっていきました。
その後、各地のKawaiiコミュニティとZOOMを使ったコミュニケーションとして「Kawaii Tribe Session」を開始。
さらに、Speak Upの流れは広がり、「Black Lives Matter」の際にも、Kawaiiコミュニティからはさまざまな声が上がりました。
そして、2021年末に起こったKawaii is Slur 問題。1人の黒人の女性がコスプレの格好をしたら、日本人じゃないのにそんな格好してるのかとバッシングを受け、最終的にTikTokがアカウントをBanしてしまいました。
この時、日本から声をあげたのが、本日のゲスト・紅林大空さんでした。
「日本人にも考えて声をあげてほしかった」という紅林さんの願い通り、#kawaii はTwitterのトレンド入り。後日、その日は選挙日であったにもかかわらず2度目のトレンド入りをするという驚異的な広がりを見せます。まさに、日本が声をあげた日なのでした。
「日本人が声をあげてくれて、世界中のKawaiiファンが安心してくれたと思う」と紅林さん。
増田「自然発生的に、自分の意思として始めたことが、世界各地で動き始めてる。一塊だったものが、各地で動いてる。くれちゃんみたいなファッションじゃない人もいて、何かが動いてる」
宇川「ここからKawaiiは解放されたんだね」
そして、なんとここであっという間に5時間が経過。増田セバスチャンも宇川さんも、「話し足りない!!!」と残念な様子。セバスチャンが帰国したら、またやろう!!と約束をして、お別れとなりました。
エンディングに投影されたのは、増田セバスチャンの「Yes, Kawaii Is Art」大阪開催のダイジェスト映像(現在絶賛編集中)。ここまで世界中の人の心を豊かにさせて、人によっては生き甲斐となり、お守りにもなる、人々を突き動かしてしまう「Kawaii」とは、一体何なのか?この展覧会のタイトルこそが、増田セバスチャンの現時点での答え。
物凄い情報量と資料の数に圧倒された、このDOMMUNEのKawaii77年史特集は、当日のハッシュタグやYoutubeのコメントを見る限り、見ている人たちの中にあるKawaiiの記憶がグングンと引き出したようです。
5時間じゃ全然足りない、24時間カワイイTVなんてことも出来ちゃうくらい本当に話はつきません。(そういえばセバスチャンの新聞連載のタイトルは「カワイイは世界を救う!」でした)
音声や映像が公開された際にはまた告知しますので、ぜひもう1度ご覧くださいね。
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