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なぜKawaiiファッションは原宿で生まれた?〜増田セバスチャン的・原宿の戦後史(前編)〜

先日の「増田セバスチャン5時間トーク」(結局8時間トーク)の書き起こしを少しだけ編集してお届けします!Vol.1のテーマは原宿の奇抜でカラフルなファッションがどのように生まれたのか?を紐解く、原宿の歴史です。こちらを前編・後編と分けて2日連続でお届けします。

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僕は原宿にお店を出して25年、住んで20年以上ですが、そのもっと前、高校生の頃から、週末になると千葉県の松戸から原宿に通っていたので、かれこれ30年以上この目で原宿の変化を見てきました。

でも、原宿の自由なファッションの原点はそのもっと前。第二次世界大戦の戦後から始まります。

【ワシントンハイツ】アメリカ文化が流れ込む街

代々木公園のあたりは戦前、代々木練兵場という軍事施設で、終戦から1年経って未だ多くの米軍が日本に滞在するなか、その家族とともに住む街・ワシントンハイツが作られました。

ワシントンハイツは、日本人にとっては少し怖い場所でありながらも、アメリカ製のおしゃれなモノに惹かれる若者にとっては憧れの土地でもありました。

その後、ワシントンハイツのあった一帯は日本に返還され、「いだてん」にも出てきたように3年後の東京オリンピックの選手村になりました。そしてオリンピックが終わり、代々木公園になりました。

【ホコ天誕生】若者が集まる街へ

1970年代から、大人たちが近寄らないこの場所に、若い世代たちが集まって自分たちだけの流行を作っていくことになるのです。

まず目立っていたのは、いわゆるやんちゃな若者たち。バイクに乗った集団が原宿にたむろしました。舘ひろしさんがリーダーの「クールス」なんかが有名ですね。

でもだんだんと、青山のあたりで抗争が絶えなくなっていました。そこで、警察が歩行者天国を作って車の乗り入れを禁止。ホコ天が生まれました。

そのころ、東急プラザのある場所には、「セントラルアパート」があって新進のクリエイターやアーティストの事務所や拠点が集まりました。「ほぼ日」で僕もお世話になっている糸井重里さんもここに事務所がありました。

ちょっと話がそれると、1990年代はセントラルアパートの一階には化粧品の安売り店なんかがあって、栄華が終わった後の少し廃墟な感じがあったなぁ、なんて思い出します。

で、ホコ天です。

ホコ天って、すごく広くて。NHK・代々木公園のあたりから、ラフォーレを通って、交番のあたりまで全部がホコ天でした。そこで若い子たちがたむろするようになっていったんです。

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