祈り、光、希望、
ワタシの手元には毎日新聞社が発行した阪神淡路大震災の記録、当時の新聞や写真を収めた本がある。いつか、この地で、子どもたちに関わる何事かをできるようになった時、彼らに伝えるために集めている本の一つなんだ。
2024年現在、「人生いろいろ」であるように、ワタシも当時予想しなかった紆余曲折を経て大阪に住んでいる。今日は言わずと知れた阪神淡路大震災があった日。もちろん当時ワタシが将来大阪人と一緒になるとは夢にも思ってもいなかった。
元旦は義実家で過ごす、今年もそうした。夕方になり能登半島地震が起きたが、マンションの上の方なので大阪でも揺れがそれなりに大きく、テレビがガタガタと転けて姪っ子に怪我をさせてしまいそうだったのを一瞬で察したワタシは即座に席を立ち上がり、それらを押さえ、子どもたちと義両親に当たらないよう馬の眼(いわば!まさに!配偶者である!)に指示をした。より大きな揺れが来るならこの大型本ばかり入った棚はもたないなと思いながら。
この甥っ子、姪っ子は、もちろん、阪神淡路大震災を知らない。
2013年8月。ワタシは宝塚市にいた。当時はそこに住んでいた馬の眼とそのご両親のところに2週間ばかり滞在していて、結局そのままこちらに移住することになったのだけど、まだその日はそう決断していたわけではなかった。
どうやら街で何かお祭りみたいなことがある、と、後に義母となる馬の母が言う。「行ってみたらどうか?」と言われ、まぁ観光がてら行ってみるかと気軽な気持ちで訊ねた。それが2013年8月17日に行われた『宝塚「生」祈りのメッセージ・夏』
その前年2012年までは宝塚に横たわる武庫川で灯籠流しが行われていたようなのだけど、この年は1000の光の灯として河原に並べられていた。
(映像を撮ってくれていた人がいたようです→ こちら )
音楽が演奏されていたり、川辺に座るカップルがいたり、子どもたちが走り回ったり、一見すると、ただの小さな街のお祭りなのかなと、そんな気軽さで眺めていた。事前に何も聞いていなかったのはむしろ良かったのかもしれない。
ふと見つけた灯籠。道産子には珍しく思えて、「あぁ、すんごい日本って感じするよなー」と、一つ一つの灯籠の間を縫うように歩き、手書きされたメッセージを何気なく読んでいった。七夕の短冊や神社の絵馬に書くような、他愛ない、素朴な、だけど、人々の日常の平安を祈る小さな気持ち。
時折、亡くなられた方に見守ってくれるよう願う、また死者の心安らかにと願うメッセージが散見され、ハッとした。恥ずかしながら、この日初めて、阪神淡路大震災って、宝塚でも大きな被害だったんだ。と知った。なぜ宝塚歌劇は温泉場で発展したはずなのに温泉旅館がほとんどないのだろうと思っていたのだが、震災による影響であることもその時に知った。
見逃してはいけないものがあるように思え、結局全部読み終わるまで歩いた。
(映像にもありますが1000個全てが灯籠ではないので時間をかけても読み切れました)
昨日も蝋燭を立てたと聞く。
このプロジェクトは宝塚市が大事に育ててきたもので、元は石で形作られた「生」であったらしい。何度川に流されても何度でも積み上げる小石のオブジェクトはもう10代目を超える。
流されても流されても積み上げていこうとする行為、そのプロセスや、意欲の方向性、それ自体が生きるってことなんかな。と、死にたがりはぼんやり思った。
(宝塚市自身が発行するこの記録では2019年までしか更新されていないのだけど、こちらのニュースを見る限り今日時点で13代目のようです)
2013年12月。無事に「エセ関西人」となったワタシは神戸ルミナリエを観に行った。結局それから3度も観に行くことになる。実際観に行くのはイルミネーションではなく、そこにいる人々だ。
これを初めて見た時すんごい寒く感じてさ。まずここに辿り着くまでが長いんだよね。その長い道のりを馬ちゃんとダベったり(かわいそうに馬はたいして興味もないのにワタシに毎度付き合わされている)、スマホいじったりしながら、のらりくらり歩いていると途中で色々食べ歩けるようになってくる。出店が出ているから。
そうするとただ歩くためだけに歩いていた群衆は、段々とバラけてきて思い思いの行動を取り始めるのだね。ベビーカーを押しながらヨチヨチ歩く子どものペースに合わせて歩く家族や、まだ将来未定のカップルの手を繋いで歩く初々しい姿、年老いた夫婦の寄り添い、単身で大きなカメラを向けるフォトグラファーと思しき人、友達同士で来ている学生たち、賑わう出店、威勢の良い掛け声、幻想的な音と光にスマホを向ける人々。
人の望むものはそんなに大したもんではなくて、大切な人と歩くこの道であったり、寒空の下でフーフーして飲む甘酒であったり、この変わらないと思える日常の風景こそが、人の望むささやかな願いなんじゃないだろうか。そう、きっと世界中のどこだって。
大層えらい政治家の御高説も、活動家の声高に叫ぶご立派な未来も、正しさも、どんなにたくさんのお金も、何もかも、この小さな市井の人々の漠然とした願いを聞こうとしないのなら、なんの価値もない。今でもワタシはそう考えている。
そして、誰しも自分の胸の中に小さな宝箱があって。サクマドロップみたいな大きさのガラスの色石がいっぱい詰まってるような人もいれば、大きなジュエリーがたった一つ入っている人もいれば、中には宝箱のヒンジが外れ、外壁はベコベコになり、中は薄汚れていて、空っぽに感じる人もいるかもしれないんだけど、
だけど、ここに何を入れるかは自分で決められるんだと思う。自分で決めていいんだと思う。
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※サムネイル画像
ぱくたそさんからお借りしました。撮影されたのは安西成文さんです。ありがとうございました。まさにこういう絵を自分の中でも感じていたので驚きました。重ねて感謝を。
※プロジェクト(project)
※オブジェクト(object)
※プロセス(process)
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