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冬-vol.3 福田花

 すっかり初夏の陽気に変わって、春の更新さえもままならないでいますが、今回は前回の続き、巨木あつめ後編と題して冬の話をしようと思います。
 ゆったりとした更新になっていますが、これからもささやかに続けていきますのでよろしくお願いいたします。

花の巨木あつめ 後編

 前回の記事通り、私はすっかり巨木に魅せられ「栃木県 巨木」と調べては写真に写る様々な木々の雄大さにドキドキしながら次はどの木に会いに行こうかと考えていた。

 大きな木たちを見ても、これは山の中だから冬はちょっと行けないなとか、沢の近くだから今は危ないかなだとかいろんな寂しい理由を見つけてはこたつに潜り、行くことを諦め続けていた。

 そんな中、山でも林でも沢でも神社でもなんでもないところにいきなり大きな木がある事を知った。それが大田原市に位置する「練貫のエノキ」という木だった。

 しかし、私の住む町からは車で1時間ほど。周りに何があるわけでもなく、本当に木を見に行くだけに1時間かかるので少し気が引けた。
 私は車社会のこの街で自分の車を持っていない。何かとアクセスの良い場所に住んでいるため自分の車がなくとも徒歩や自転車や電車を使うことで生活ができていた。そうは言っても、車がなければいけない場所も多い。そんな時は友人や恋人がたびたび私を乗せては遊び場に連れてってくれる。そんな少々他力本願な私に、彼らは嫌な顔ひとつせずにいてくれる。早く車を買って、今度は私が彼らを乗せて素敵な場所に連れていきたいものだ。
 
 例にならって今回も木を見に行くだけに片道1時間も車を走らせてもらうことになる。気が引けるなと思いつつ、どうしても写真で見た大きな榎を自分の目で見たい!それに加え、せっかくならば一緒に楽しめそうな人たちと巨木を見て、木のたくましさや、優しさを感じ取り、ああだこうだと言い合いたいと思い、恋人と友人2人を誘うことにした。
 恋人は、何度も巨木あつめに付き合ってくれているので「いいね」とあっさり承諾してくれた。友人2人にも「大きな木を見に行きませんか」というやや不思議な誘いに「面白そう」とのってくれた。そうして私たち4人は、年が明けた1月10日に巨木をあつめに行ったのだ。

 車中はなんとも穏やかな空気が流れ、思い思いの好きな曲を順番に流し、他愛のない会話をした。そして、友人の一人が「大きな木ってなに?」という素朴な質問を投げかけてきた。確かに「大きな木を見に行こう」という誘いに疑問もなしにのってくれる人など果たしているのだろうか。そこで私は巨木あつめと題して県内の大きな木を見に行くことが最近の趣味だと言い、以前見に行った木の写真を見せたり、木たちに実際会ってみて思った話をした。
 
 田舎に住む私たち。周りを見ればいくらでも自然がある。もちろん数えきれないほど木もある。当たり前の風景になってしまっている自然の素晴らしさを見落としてしまうことが多くある。自転車や車で過ぎる道を自分の足で一歩ずつ歩くことで、咲いた花から季節を知ることや、人の手が入った場所なのか草花が伸び伸び自由に生きる場所なのかを知ったり、葉っぱの緑に目でわかるだけでも知らない色があることを知る。私は、巨木に出会ったことで木が一つの生命だという事を改めて強く認識し、自然の強さを知った。今回、ともに巨木あつめをしてくれる仲間たちもきっとそんな私の思った事を一緒に感じられる人だろうと思っていた。

 そうこうしているうちに町はどんどん家が減り、田んぼの多い場所になっていった。車のスピードもあがり、町の人だけが通るような道も増える。マップを照らし合わせながら進むともう少しで着くという。辺りには林もなにもない。稲が刈られ時間がたった静かな茶色い田んぼと、家がぽつぽつとあるだけ。空を割いてしまいそうなほど高くそびえる鉄塔が電線をたゆませながら繋がって、我が物顔でどーんと並ぶ。奥には白く雪がかった山がこれまたどーんと見える。
 そして見えた、田んぼに囲まれたあまりにも大きな木。一本だけの遠くからでもよく目立つ大きな木。車に乗った全員が一斉にうわー!と歓声をあげる。あぜ道を進んで木に車が近づくにつれ、よりでかでかと、圧迫感すら感じた。
 木の近くには、丁寧にも3台ほどが駐車できるスペースがあった。この木を見に来る人が他にもいるんだろうとほっこりした。車を降りるとヒューと北風が吹き、私は肩をすくめる。
 看板がいくつかあり、その中に「おおたわら令和の名木選」というものに選ばれている木だということを記すものがあった。こんなに立派なのに令和に選ばれたのかという疑問はこの際しまっておく。

エノキの看板

 樹高はなんと約23メートル。目通りは約5.9メートルと目でも数字でもこの木の大きさがわかる。樹齢は約170年ということで、エノキという木の成長スピードに驚いた。他に見に行った木は700歳など。若くても400歳程度だった。170年でこの大きさまでいくとは。なんと生命力の強い木だろうか。

 巨木はこうした数字が見られるところも面白いポイントだ。数字として高さや樹齢を推定でも知ることができるとよりワクワクする(人間は数字が好きだとつくづく思う。私もそう)。
 特に樹齢を知ることが私は好きだ。例えばこのエノキならば、170年という時間をこの場所から一歩も動かずに過ごしてきたわけだ。この木がその時間、町を見守ってきたことになる。そして、周りの住人もこの木を大事にしてきたことになる。何人もの人がこの木陰で休んで、どんな風景の移り変わりをこの木は見てきたんだろうと思いを馳せる。また、木にとっての170年はどのくらいの長さなんだろうと考える(答えは出ない)。
 
 特にこのエノキはここまで大きくなったという事実に感動した。そもそも、田んぼの間に木が生えたら農家にとっては邪魔だろう。日陰ができてしまうし、稲を育てる場所も減ってしまう。それなのにこの木だけは守られてきた。他の木はない。
 さらに、ぽつんとこの木だけがあるということは、雨風をこの木だけで受け止めているという事だ。それにも感服した。建物や他の木に隠れたりすることができないのだ。強い風が吹いても、鋭い雨が降っても、しんしんと雪が降ったとしてもこのエノキはひとりだけで受け入れなければいけない。
 私が見てきたいくつかの木は神社にあり、建物や他の木とともにその地に生きることで互いに支え合いながら大きくなったという印象を受けた。そのため、このように、ひとりぼっちで大きくなるという木がどれだけ強いのかという事は想像がつかない。

 プラスの点ももちろんあるはずだ。田んぼがあるという事は、川が近く、水に困ることはない。木がひとりだけという点も栄養を独り占めできるはず。それに周りに何もない分、枝の広がりが今まで見てきた木の中でダントツに大きかった。邪魔するものが何もなく、剪定される理由もない。伸び伸びと雄大に生きていた。
 また、前述した通り、鉄塔が近くに立つ。ひとりでに立つ大きな木でも鉄塔の避雷針が雷を木に落とさまいと働いてくれたのだろう。

 きっといろんな理由が重なってここまで大きくなったのだ。
 それを思うと愛おしさすら湧いてくる。

 冬に訪れたため、葉を全部落とし、裸ん坊のエノキだった。枝から空が透けて見えた。幹も少し乾いて、まさに冬の木といった様子だった。私たちと大きなエノキの間を一層に冷たい風が通り過ぎる。裸の枝が揺れる、私たちの髪もなびく。170歳のエノキと同じ一瞬を過ごす。

 こんなにも大きな木が170年という間、毎年休むことなく若葉という新しい命をつける。数えきれないほどの葉を風になびかせて、また少しずつ枝を伸ばす。そしてあっという間に葉を散らし、虫たちを温めながら冬を越える。木はとっても優しい。

 先ほどの写真とは別の看板には、田んぼの間に生えた木の中に他には見ないエノキがあったためそれを残したといったことが書かれていた。そこで、やはりこの木は人と一緒に生きてきた木だと思った。私は人間は自然に生かされているという考えを持っているが、この時はこのエノキとここに住む人が一緒になって生きているんだと思えてとても嬉しかった。
 田んぼの手入れの合間には、この木陰で休んでいるのかなと想像してそれもまた嬉しくなった。
 
 一緒に行った友人たちも、近くで見たり、遠くで見たり、下から見上げてみたり、木の肌を観察したりとそれぞれに楽しんでいた。感想を言い合ったり、写真を撮り合ったりして、このエノキとの思い出を作った。
 一人でじっくり木と向き合って黙って思いを巡らせるのもいいけれど、こうやって人とこの木はどんなだと話をしたり思い出せるよう写真を撮り合ったりするのもいいなと思った。

 もうあっという間に春。初夏の匂いすら感じる。今、エノキはどんな色をしているだろうか。もう少し暑くなったら、この大きなエノキの木陰に休みに行こうと思う。

人と比べてもこんなにも大きい

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