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自然、逃避ー福田花


 自然を感じる瞬間が今のところ何より好きだ。
 ひとつの動物として、その世界に入り込んだつもりになれること、それから自然の中で人間という自身の異物感に気づくこと、自然に対し、絶対に勝てないと思えることが好きだ。


藍色の空に真黒い山の輪郭が近づいていくる
雲に集まった光が
森にすっと吸い込まれ
私だけが反射している

木々が確かめる
私の正しいはずの命を

―2021 年 8 月 17 日 福田花

 大きな木を見に行って、人気のないあぜ道を歩いて、空気をこれでもかと吸い込んで、寒さや暑さに体を任せて「世界、でかすぎるー!」と思う。

  歩いても歩いても、進んでる距離は大して変わらず、追い越していく車に「文明の利器め!」 とこぼしながらも足裏に感じる地面の凹凸に喜ぶ。

 色の名前に疎い私でも、まるで違う緑色の数々に目をらんらんとさせる。(アンミカさん、 緑は200色以上ある気がします。)

 仕事で出会った人との他愛のない会話の中で「自然を見ることが好き」という話をした。
大好きな京都府立植物園やお気に入りの巨木の紹介もした。
 彼は興味深そうにウンウンと話を話を聞いた後、
「それって現実逃避なんじゃない?」と言った。


 私が見せた写真たちがどれも現実離れしたものばかりで、自然でない自然だと感じているらしい。自然らしい自然とは...

 私の世界はその写真の中にあり、どちらかというと仕事をしたり電車に乗ったりしている 方が非現実的であるため、自然を見に行くことで体を取り返すような感覚がなんどもあっ た。

 彼のその一言は私の頭をぐるぐると回っていた。

 25 歳になった今でも地に足が着いているように見せかけたまま。

 うーん。わたしの世界ってどこにあるんだ?現実ってなんのことなんだろう。

 そこで私はコトバンクに「現実」について聞いてみることにした。 すると、

げんーじつ【現実】
①(空想、理想などに対して)事実として目の前にあらわれているものごとや状態。また、現在、実際に存在していること。
精選版 日本国語大辞典 コトバンクより ※②は省略

とあった。

 うーーーん。
 それであれば、実際に会ってきた植物たちは現実であり、そうでない巨木巡り用の保存された写真の中にいるまだ見ぬ木々は現実ではないのか。
 しかし、“現在、実際に存在していること” であれば大抵のことは現実になってしまう...。

 そもそも、“実際に存在している”というのはどのようにして証明するのだろうか。 見えていなければ現実にはならないのか、はたまた、見えていても存在の証明ができないも のは現実ではないのか...

 木に関してはさらに難しい。その木が存在しているかどうかは、死んでいるのか生きているのかに委ねるのか?では何をもって死とされるのか...枯れただけで死と言えるのか?

 倒木になった木々は現実ではなくなるのか?(最近の私といえば、倒木のロマンに思いを馳せている)

 考えれば考えるほどに「現実」というものがわからなくなっていく。
 そこで「現実逃避」についても聞いてみた。

げんじつーとうひ【現実逃避】
実際問題としてやらなくてはならないことを、意図的に避けようとすること。また、その行為や心理状態。
デジタル大辞泉 コトバンクより

と。
 なんとここでは「現実」が“実際問題としてやらなくてはならないこと”として扱われて いる。現世はこんなにも苦しいものなのか。

 京都植物園に行ったときにインドボダイジュを見た。釈迦が悟りを開いたとされるのはインドボダイジュの下であった。そのため、さぞパワーがある木なのだろうと期待していたが、 普通の木だった。その木が細かったという事もあるが、近づかなければ名札も見れず、温室の端の方に植えられており、見落とされてしまうような場所にいた。

 それに比べて、高根沢で見た菩提久保のボダイジュは圧巻だった。
 木を見に行く前日に調べた結果、その木が釈迦のボダイジュと種が違う事に悲しんだが(インドボダイジュはクワ科。日本にあるボダイジュはシナノキ科。)、むしろ私はこちらの木の方がしっくりきた。


 高根沢元気あっぷ村で車中泊をして、翌朝からボダイジュを見にそこから歩こうということだった。

 6月に似合わないカンカン照り。車から出てすでに汗だくの体はみるみる体力を消耗した。思ってたよりも道のりは遠く、飲み物をガブガブ飲み、汗ダラダラで歩く。
 タンクトップにロングスカート、風は通るけれど足に張り付く。靴はおしゃれ♪なんて思ってマーチンの8ホールを履いてきてしまったので暑さは倍に増していた。

 田舎道をひた歩き、私道か公道かわからない細道を抜ける。
 真夏の田舎。暑さすらサイコーに変わっていくものだ。
 真っ青な空に緑の青さがよく映えて、私の目は栄養を取り込む。

 そうしてやっとたどりついたボダイジュはあまりにも大きかった。周りより高い場所にあり、広々と枝を伸ばし、丁寧に木の説明の看板まであった。
 この辺りはこのボダイジュから取って「久保菩提」という地名が付いたそうだ。
 大きな木陰で休み、そこに生きる虫や鳥たちを思った。

 それは間違いなく現実ではあったけど、確かに現実逃避的行為だったかもしれない。

 人が生まれてからも自然は常にそこにあるけれど、かつての人の影響が全くなかった自然はもうどこにもない。

 互いに影響を与え合い、いまの自然がある。手付かずの自然というものは幻想でありながら人はまたその姿に思いを馳せる。私もまたその1人である。

 『自然という幻想』というエママリスが書いた本がある。大学の講義でこの本を知り、手に取ったのだが、私の自然に対するモヤモヤを一掃とはいかないがある程度形にしてくれる本だった。
 まだ読み途中のため(積読しています…)、今後どうやって展開していくのか、そして私は何を思うのかに期待している。

 私が自然に求めるのは「現実からの逃避」なのか、「現実への逃避」なのか。


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