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「なお、この写真は自動的に消滅する」

 意を決してデジタル一眼レフを買ったのはいつだったか。まだミラーレス一眼が普及していない頃だったから十年くらい前だっただろう。私にとってはとても高価で、当時それはそれは大事に辿々しくホールドして写真を撮っていた記憶がある。今でもほとんどカメラに詳しく無いし、頻繁に失敗もする。しかし、デジタルなので気が楽だ。

 私の生まれた頃、我が家の写真はまだ白黒だったが、三つ下の妹からはカラー写真になった。三年の差がうらめしい。どちらにしろ、まだフィルムや現像にお金がかかり、家にカメラがあっても気軽に撮れるものではなかった。出番は記念日や旅行、運動会などに限られる。アルバムは大きく重厚感があり、棚から取り出すのも一苦労なほど。母は限られた写真を硬い厚みのある台紙に配置し、私専用のアルバムを成人するまでに7冊くらい作ってくれた。

 家庭を持ち、息子が生まれた頃はまだフィルムカメラが主流だったが、小学生になる頃には印刷に耐えうる画素数のデジタルカメラも普及していた。それでも撮ったものはプリントアウトしてアルバムにしていたし、お友達と一緒に映ったものはプリントして相手に渡していたように思う。

 現在はプリントする事はほぼ無い。旅行の簡単な記録や日記用に小さくプリントするくらい。気に入った写真はiPadに入れ、たまに見返して楽しんでいる。

 スマホでも高画質のいい写真が撮れ、日常の些細な風景も残せるから、フィルム時代から比べると膨大な量の写真データが各家にあるだろう。私は後でごちゃごちゃするのが嫌なので、年始に前年分の写真データを一つのハードディスクにまとめる。例えばスマホ、iPad、一眼レフ、または家族が撮って送ってくれたものなどから。こうしておくと後で何か探したい時に慌てないですむ。
 そう、今まではなんとなく同時に、こうしておくと自分以外の人が管理しやすいのでは、と思っていた気がする。つまり、自分が管理できなくなった時への備えだ。

 昔の古くて重い大きなアルバムの写真も、現在の膨大な写真データも、家族にとっては同じだけ大切だろう。
 私も大切に思っていたから、毎年きちんと整理し、新しい記憶媒体が発売されるとより安全な物を吟味してデータを移し替えていった。大事な家族の思い出を残す為に。
 だが、最近、それに意味があるのだろうかと思えてきた。
 世代が変わり、写っている人に馴染みがなくなった写真はどうなるのだろう。今やお墓や仏壇も整理される時代。知らない先祖の写真が延々に引き継がれるとは思えない。自分にとっては大切でも、子孫にとっては重荷やも。
 古いアルバムはなんとも処分しづらいものだが、目で見て一発で写真とわかる。しかし、データは引き継ぐ間に、読め込めなくなったり、その結果それ自体が写真と分からず、どこかへ行ってしまうこともあるのではないか。

 先日あるテレビ番組で、古いカセットテープを収集している男性を見た。その方は誰かが家庭で録音したようなプライベートな音を聴き、色々想像を膨らませて楽しんでいた。
 私は個人的な家族の風景が、世間に漂う危険性を考えて、今までクラウドを利用する事を避けてきたが、もしかしてなんらかの媒体に残したとしても、同じ様な結果になるのかも知れないと思えてきた。

 自分の死後など知った事ではない、という人もいるだろうが、私は何事も立つ鳥跡を濁さずでいたい。

 昔のスパイドラマのように、自分の写真データが役目を終えると自動消滅する記憶媒体があれば、気持ちはすっきりするだろうか。

 まぁ、この50年で写真を取り巻く状況がかくも変化したのだから、また数年後にはビックリする変化を遂げているかもしれないけど。
 

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