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碧梧桐の新居の場所を探せ!

 それから間もなく、戸塚に引越されたが、私は旅行中で知らなかった。旅から帰った私は風邪ごこちで、碧師の新居を訪ねなかったら「水木が僕の家を見に来ない筈がない」と人に云われたのを又聞きして、私は風邪を押して見に行った。六十四歳で初めて中古のわが家が買えた、と云うよろこびに、子供のように、碧師は自慢たらたら、家の隅々まで私を引張って行って、襖が皆鳥の子で張ってあることや、格子戸の細工やら柱の太さやら、はては畳の床ま敲でいて見せるのだった。この夜あり合わせだがと云う、お料理をよばれて、四、五時間も雑談をした。 これが碧師との最後の晩餐になろうとは思わなかった。

水木伸一著『碧水帖』

「水木が僕の家を見に来ない筈がない」と謎に言い張るくらい仲良し友人の水木氏に、ウキウキで新居を見せる碧梧桐。
知己や、俳句の面では離れて行ってしまった弟子たちからも出資を受けて(人徳ですね…)、昭和11年の秋、新しい家に住むことになりました。
このころの碧梧桐の文章やまわりの人々の文章を読むと、碧梧桐は相当この初めての持ち家が嬉しかったようで、浮かれています。
この新居を手に入れた数か月後に亡くなってしまう事実を知っている後年の我々は、このウキウキ碧梧桐の文章を読むたびに悲しくなってしまうのですが……

この新居の場所が知りたい!
ということで探しに行ってきました。

記:いけだ

碧梧桐の新居の住所

晩年の碧梧桐や関連の文章を探すと、しょっちゅう新居の住所があらわれます。嬉しくて招きたいので、はがきを出しまくったのでしょう。(碧梧桐はもともと手紙をよく書くタイプの人だったようですが)
実際に、昭和12年1月22日には弟子を招いて新居祝いを行っています。碧梧桐は1月20日に発病したとされており、22日も体調があまりよろしくなかったそうです。その数日後には子規門下の旧友たちを招くはずが、体調不良を理由に中止になっています。この集まりは実現しませんでした(悲)。

ということで、碧梧桐が連呼していた住所がこちら。

淀橋區戸塚町四ノ五九〇

淀橋区!
知らない区だ!と思ったら昭和22年に廃止された地名でした。
戸塚町のほうをGoogleマップで調べると、早稲田大学のあたりに「戸塚町」がありました。早稲田のあたりなのだろうか……。区でいうと新宿です。
このへん↓

この予習だけして、困ったら国立国会図書館ということで、東京に訪れていたある日、行ってまいりました。

国立国会図書館で昔の地図を見に行こう

訪れるのは2回目。地図の部屋は4階です。
部屋に入って右手に、古い地図の史料がありました。

でっかい本を取り出して、早稲田にアタリをつけて「戸塚町」を調べてみます。
ありました、やはり早稲田のあたりが戸塚町です。ただこの早稲田のあたりは、「戸塚町1丁目」でした。碧梧桐宅は「戸塚町四ノ五九〇」、4丁目です。4丁目を探します。
早稲田のあたりだと思い込んでいたのでなかなか見つからなかったのですが、やっと見つかりました。高田馬場駅の西側です。早稲田は駅より東側で、そちらばかり探していました。

昭和12年、ちょうど碧梧桐が亡くなった年に発行された修正測図です。

柏書房株式会社発行『明治前期・昭和前期 東京都市地図2 東京北部』

アップで見てみます。

淀橋区、たかだのばば(駅名)、戸塚町四丁目にマーカーを引きました


高田馬場駅前の西口から伸びていく大通り沿いに、戸塚町四丁目がありました。
なるほど、このY字路のあたりなんですかね。

試しにGoogleマップでも見てみると……おー!Y字路ありますね。昭和12年と地形変わってないんだな~。


続いて、同じ本で昭和20年の地図があったので見てみます。

柏書房株式会社発行『明治前期・昭和前期 東京都市地図2 東京北部』
淀橋区、たかだのばば(駅名)、戸塚町四丁目にマーカーを引きました

碧梧桐が亡くなってから新居はすぐに引き払ったようで、昭和20年時点でここに親類は住んでいないと思われますが、調査のためにチェックです。
地名は変わっていないようですね。さっきより地図が見やすくなりました。
戸塚四丁目があのあたりなのはわかりましたが、大通りの北側なのか南側なのか、それとも違うところなのか……。

続いて、昭和31年の地図です。

柏書房株式会社発行『明治前期・昭和前期 東京都市地図2 東京北部』

番地が書いてあるぞ!?

新宿区、たかだのばば(駅名)、戸塚町四丁目、番地にマーカーを引きました

新宿になってる!町の名前は引き続き戸塚のようですが……。
番地が書いてありますね、もっとアップで見てみます。

589と592にマルをつけました

589番地と592番地がある!碧梧桐の住所は「淀橋區戸塚町四ノ五九〇」、590番地なので、この間あたりなのではないでしょうか。
昭和31年には590番地が消滅してしまったのか……。

この本ではここまでしかわかりませんでした。
大体ここだろうなという見当はつきましたが、ばっちり590番地を探したいところ。

また別の本をあさっていると、良さそうな本がありました。

東京都新宿区教育委員会(文化財郷土資料担当)発行
『地図で見る新宿区の移り変わり ─戸塚・落合編─』

バッチリすぎる……。いかにもこれが知りたかったんですよ、という題名の本を開きます。

戸塚町の地図が載っている場所を探すと、まず大正4年のものがありました。

東京都新宿区教育委員会(文化財郷土資料担当)発行
『地図で見る新宿区の移り変わり ─戸塚・落合編─』

あっ!

五九〇番にマーカーを引きました

590番地ありました!でも2つある!?
大正4年の時点で、590番地はおうち(1号)と畑(2号)に分かれていたようです。
すぐ北と南に、さきほどの589番地と592番地があります。この2つの番地の間、という予測も間違っていませんでした。

続いて、昭和初期と記載のある地図を見てみます。

東京都新宿区教育委員会(文化財郷土資料担当)発行
『地図で見る新宿区の移り変わり ─戸塚・落合編─』

区画は変わっていないようです。

五九〇番にマーカーを引きました

畑が無くなって、両方ともおうちになっていました。
向かって右(東側)が590-1、左(西側)が590-2です。

地図を色々見て、この地図が一番時代が近く、詳細でした。
繰り返しになってしまいますが、碧梧桐の住所は「淀橋區戸塚町四ノ五九〇」。4丁目590の……どちらだ!?

その疑問を抱えたまま、地図を印刷、国立国会図書館を後にして、現地に向かいました───

碧梧桐の新居の場所あたりに行ってみよう

Googleマップで先ほど調べた場所の現在の場所を検索し、電車を乗り継いで歩いて到着です。区画変わってなくて嬉しくなりました。

現地を歩いてみると……住宅街です。15時過ぎ、小学校低学年の子の帰宅時間で、交通当番のおじいちゃんが私を怪しげに見てきます。怪しいでしょうね……。
古い地図とGoogleマップを照らし合わせます。Googleマップでいうと、斜めの線(駐車場でした)の所の上半分の箇所でしょうか。

さて、碧梧桐の新居はこの場所の東側か西側か問題です。
ここで、碧梧桐の新居祝い招待状を見てみましょう。新居開催ですから、行き方案内も書いているのです。
※国立国会図書館アカウントログインで閲覧できる資料です↓
https://dl.ndl.go.jp/pid/10987929/1/39

改造社発行『俳句研究 4(3) 3月號』
松宮寒骨著「最後の晩餐」

題名が不穏です。
昭和12年1月22日、碧梧桐新居で開催された新居祝いの日のことについて、弟子の松宮寒骨が詳しく書いてくれています。

寒骨の文章を引用しますと、

 慥か一月十五日の朝であつたか、先生から往復はがきが來た。その文面は
拜啓小宅新居開きといふでもなく久しぶりにて同人會談致し度來る廿二日午後六時萬障御合せ御參集(拙宅迄)お願ひします
尚小宅はハイヤバスに限らず戶塚四丁目停留場にて下車角の八百屋にておきゝ下さい
一月十四日

改造社発行『俳句研究 4(3) 3月號』 松宮寒骨著「最後の晩餐」

ポイントは「戶塚四丁目停留場」と「下車角の八百屋」。
つまり八百屋がどちらの角にあるかで、碧梧桐の家が590-1か590-2かがわかります。

もし、バス停の場所が戦前から変わっていないのであれば、恐らくこれなのではないか、というバス停がこちら。家の推定場所の南側、広い道路に面したところにあります。
バス停の名前は「高田馬場四丁目」です。

最寄り駅?の現在「高田馬場四丁目」

さてもう一つの八百屋さんですが、見当たりません。今はもう無さそうです……。
こうなれば、知ってそうな方に聞いてみるしかありません。

私「すみませーん」
?「うわびっくりした!!」

大変驚かせてしまったのが、バス停から10歩のところにある「和泉屋阿部豆腐店」の女将さん。
いかにも昔から地元の方に愛されていそうな、古き良きたたずまいの建物です。

「和泉屋阿部豆腐店」さん

左側がバス停、右側の建物が豆腐店↓

私「お尋ねしたいんですが、すーごく昔に、この辺に八百屋があったりしませんでした?」
女将「八百屋?あったよ、こっち側がそう」

ありました!!
女将さんが指さした方向はこちら側。

東のほうを指さす

この、「久塚接骨院」の建物の場所が、昔、八百屋さんだったところ。
昔といっても15~20年前に閉店したそう。

久塚接骨院

角にあります!八百屋ここだー!
つまり、碧梧桐の家の場所は……。

角の事を考えると、「590-1」なのではないでしょうか。

碧梧桐の新居に招かれたお客人は、この角の八百屋さんに碧梧桐の家の場所を尋ねて、来訪したということです。

現在の「590-1」は、個人宅やアパート、駐車場になっていました。跡形もなし、夢の跡……。
ほぼ跡形もない街の景色ですが、どうやらこの和泉屋阿部豆腐店さんは昭和のはじめくらいに創業?したそうで(詳しいことはわからないとの女将さん談)、もしかすると碧梧桐はここで豆腐を買ったかもしれないし、八百屋で野菜を買ったかもしれない(碧梧桐は料理をするタイプの人)。
冒頭で引用した文章で、碧梧桐が「あり合わせだが」とふるまったのは、このまちに当時たくさんあった個人商店で購入したものだったのかも、終の棲家にするつもりだからお店の人とも仲良くなって……など思いを馳せながら歩いていました。


余談ですが、今回お話をお伺いした和泉屋阿部豆腐店さんのオカラドーナツがとってもおいしかったので、おすすめします。
おから=パサパサのイメージがありましたが、こちらのドーナツはモッチモチです。ほのかな甘みがおいしい。
2024年1月時点では月水金曜日に販売ということでした。

おいしい!もちもちのオカラドーナツ


碧梧桐が亡くなった病院あたりにも行ってみる

碧梧桐の新居の場所は大体見当がついたわけですが、ここまで来たら碧梧桐の様態が悪化して運び込まれて、そして亡くなった病院の跡地にも行ってみようと思い立ちます。
それは、地図で新居の場所を調べている際に、新居から歩いて行ける距離だということがわかっていたからです。

「豊多摩病院」。伝染病隔離場として建てられた病院だそうです。

古い地図で見ると、以下の通り。

柏書房株式会社発行『明治前期・昭和前期 東京都市地図2 東京北部』
黄色い☆が家、赤い○が豊多摩病院

距離間、大体500mほど。
私の歩くスピードで、碧梧桐の新居から豊多摩病院があったところまで8分で到着しました。
碧梧桐の足の速さなら3分ですよ!
こんなに近いなら体調悪くなった時点で診てもらいにいけばよかったのに…!と思ったのですが。

ただ、ここは伝染病隔離場で、まさかここに運び込まれる未来があるとは思わなかったのだろうと思います。
碧梧桐が多分元々そんな病院行くタイプじゃなかったんだろうし、引っ越してきたばかりで気軽に診てくれるかかりつけ医みたいなのがまだいなかったのかも……と勝手に想像しています。
俳人さんは当時医者が本職の方も多かったようですが、病態が悪化したときに駆けつけてくれた知り合いのお医者さんは、産婦人科医だったみたいです。

そして、豊多摩病院があったところというのが、こちら。

東京都子供家庭総合センター

かなり大きい建物で公的機関だったので、豊多摩病院の敷地はまるまるこの建物になったんじゃないでしょうか。

おわり

推測ばかりの内容で恐縮ですが、資料あさり→フィールドワークをした半日間の模様でした。

このあとJR高田馬場駅まで歩いて戻り、東京駅に向かって新幹線に乗って帰りました。
帰りの新幹線でおいしいオカラドーナツをいただきました。

おわり(い)

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