音楽

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岩井澤健治監督・大橋裕之原作の映画“音楽”を、下高井戸シネマで観た。これがもう、すんごかった。

ストーリーは、不良たちがバンドを始めてライブをする、という、本当にただそれだけなんだけれど、それを「それだけ」で映画にしている。これがなんとまぁ、素晴らしい。

造形も良いし、動きも良い。フェスのシーンなんか、ずっと観ていたいと思った。絵の良さについては、いろいろな観点で素晴らしかったのだけれど、観終わった後の清々しさは、一体何だったんだろうと不思議な高揚感が続いている。

ずっと、「あれはなんだったんだろう?」と考えていて、ヒエラルキーに思い至った。
例えば、不良。不良は、ケンカが強い奴がエライ、と描ける。
例えば、音楽。音楽は、演奏技術、作曲の才能、売れてる/売れていないで描ける。
ヒエラルキーや弱者/強者の構造を用いることで、ドラマチックになったりストーリーに起伏が生まれたりして、それこそ「全米が泣いた」りする。でも、そういうのが一切ないのだ。

暴力描写はもちろん、仲間内でヒエラルキーはない(かろうじてボクシングジムを描くことで、間接的に腕っぷしみたいなものの気配だけある)。音楽についても、一切練習らしい練習はしないし、努力や才能によって何かを習得していく描写もない。というか、そもそもそこに価値観を置いていない(し、その価値自体も否定していない。森田くんが最高にいい。)。そうそう。基本的には否定する人物が出てこない。
そういう、ある種のぶっきらぼうさを、ややコミカルに描いている節はあったけれど、それがコミカルに感じるのは、自分に固定概念がべったりと張り付いているからだ。ヒエラルキーを用いずに(ようは弱者が強者に打ち勝つ的な、もしくはそれをもってして、でも大切なことは別にあるよね〜、的な)描くストーリーの中心には、何があるのか。

ストーリーを、観た人が自分の中に描くような感じ。それこそまさに、“音楽”ではないか!

この気持ち良さは、すごく個人的な体験のように感じた。知っているよこの感じ。音を鳴らした瞬間に、脳ミソが爆発しちゃう感じ。何かに思いっきり打ちつけられてしまう感じ。共有が難しい。だけど、自分が好きな人にはぜひ観てほしいと言いたくなる。

たまたま岩井澤監督の舞台挨拶を聞けたのだけれど、それがまた良かった。「バイト先でたまたま仲良くなった人が描いている漫画が面白くて、『これちょっと映画にしていい?』て言って作り始めた」とか「自分には才能があるとは思っていないけれど、誰だって7年かければ映画作れると思いますよ」とか、「あれ?なんかこないだ僕noteにそういう話書いたな」て思った。本当にこの人、作りたいものを作ったんだな、と思った。

世界を全肯定していく体験は、ごくごく個人的なものだ。そんな映画のタイトルが“音楽”て、それだけでもうグッときちゃうよ。(松田でした)

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